生きづらさの紐とき。他人のせいは横むき、自分のせいは後ろむき。あきらめるほうがきっと前向き。
怒ってる時間はほんとムダ。後悔してる時間も、自分のせいだ他人のせいだと考えている時間もムダであることが多い。
「怒ること」がムダなのではなくて、「怒っている時間」がムダなのだ。後悔も文句も同じように、それに費やしている時間がもったいない。
どうしても怒りたいときに我慢をする必要はない。後悔もしていいし、自分も他人も責めることが間違いという話じゃない。ただその時間がムダであることをわかっていたら、どうだろうか。
なんで自分は…と丸一日悩んで、
それでなにか解決しているだろうか?
あいつのせいで、と一日ムカムカして
それで相手は何か変わるのだろうか?
自分を責めても責めても、実際にはそれで反省をした気分になっているだけで、具体的に何かを省みたり動いたりはしていないだろう。
自分を責めるのがクセだという人はたくさんいる。だから嫌な話かもしれないが、ただこれは僕らの「考え方の落とし穴」の話であり、事実として知って欲しい。
他人のせいにして腹を立てたり愚痴を言ったり、怒って相手に謝らせたりしても、自分が勝った気分になることでスッキリしているだけ。
それではなにも変わってないどころか、愚痴を聞かされた周りの人は気分が悪くなったかもしれない。そうすると怒ったあなたがいちばん損したかもしれない。
そもそも、自分や他人を責めたり後悔していることというのは、たいていが「またか」と、何度も同じことがおきているのだ。
それで「どうしてなんだ?」と不満が爆発しているから腹を立てている。
どうしてなんだ?と言ってる場合ではない。
その「どうしてなのか」をちっとも考えていないから、どうしてなんだ?と不満だけいう。
どうしてなんだ?とよく考える人と
どうしてなんだ?とただ腹を立てる人がいる。
前者は事実をみて原因を探している人
後者は不満のぶつける先を探している人
前者は原因を発見して対処する。すぐにうまくはいかないかもしれないが、1歩でも前に進めているのだ。
後者はこれまで何度も同じことをしているのに、事実を見ずに「自分をせめる」か「他人のせい」にして解決した気分になる。
なぜ事実を見ようとしないかというと、自分が正しいと思っているから。不都合な結果を受け入れられないからだ。
結果というのは現実であり「事実」だけど、自分の正しさというのは「思い」の中にある。思いはおおきな未来の方向性をつくることはできるが、実際に現実に起きたことを変えられない。
事実をうけいれない理由は、自分の思いの中ににある正しさと現実を照らし合わせて、納得できていないから。
それでも構わないことだってもちろんある。
自分のやり方が正しいと信じて結果には納得できない。
でもそれなら、結果がかわるまでやり続けるだけだ。人せいにも自分のせいにもする必要はどこにもない。結局悩んでいるだけの時間はムダになる。
自分の正しさで納得がいかず、
事実をうけいれられず不満をもち、
自分を責めたり人を責めたりするのは、
ただ事実から気をそらすため。
対象を別のなにかに移して、そして時間を費やすことで「なんか対処した気分になる」ためなんだ。
そんなの本当に時間がもったいない。
たしかに問題や課題はかんたんにはかたづかない。特に「自分自身のこと」はそうだろう。
反省をしても振り返りをしても、そう簡単にうまくはいかない。
なぜなら自分のことこそ、人はよく見えていないのだから。
では単純に、手放したらどうか?
べつにいいのではないだろうか。
自分がもっているその正しさを、なにか自分の存在意義みたいにしてしまっていないだろうか。
それを手放したら何もかもひっくり返す程の「正しいという価値観」なのだろうか。
うまくいかないことは
誰かに代わりにやってもらったらどうか?
うまくいかないまま付き合っていってもよくはないか?
それを正さなければいけない理由は
本当にあるのだろうか。
できないこと、うまくいかないことを
周りに理解してもらったらどうだろうか?
そうすれば、
そのぶん違うことができるようになる。
冷静に現実を見て問題を解決していけたら本当は1番いいのだろう。
でも、それができないことで延々と不満をくりかえし持ちつづけるくらいならば、
これはもうできない、うまくいかない、
という選択肢をもとう。
その先は、何かを責めるんじゃなくて、解決なんてあきらめて、さっさと新しいことをやりながら、うまく付き合っていくことを考えよう。
そういうときは、諦めることのほうが
きっと前向きなのだ。
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