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生きづらさの紐とき。第1考「うまく思えない」

*いきづらさを紐解きたい。

鬱や発達障害というカテゴライズは、それが原因でいきづらさを感じている人にとって、よりそいを考えるきっかけをつくるものだと僕は思う。

安易に病気だ障がいだと当てはめてしまうことがあったりと、負の側面もあるけれど、公に理解を深めるためにはカテゴライズにも意味がある。

これから「いきづらさ」について考え、紐解いていくことをやってみたい。

全ての生きづらさに当てはまることはないだろうけど、共感は安心をつくりだせると思うし、分析は支援するひとたちの参考になってもらえればいいなと思う。

*なぜこんなこともできないのか

身体にハンディキャップがあるとわかる人に「なぜこんなこともできないのか」なんてだれも言わないだろう。

その人が自分で「思うように身体を動かせない」ことがわかるからだ。

だから身体の動かない範囲を介助し、動く範囲で工夫を考える。それが「身体のハンディキャップ」への理解であり協力できることだ。

しかし、脳や内臓を含め物理的な身体のハンディキャップがなくても「思うように身体を動かせない」人もいるのだ。

身体を「思うように動かせない」という言葉は、わたしたちの身体が「思うことと連動して動いている」ということを表している。

それでは、もしも、だ。
「うまく思えない」場合はどうなってしまうのだろうか?
動かすために「思う」ということがうまくいかない。すると、結局うまく身体も動かないだろう。

そして、そんなことが生活の中で頻繁におきていたら、とても生活しにくいはずだ。なのに、その状況を本人以外の人が実感できるすべがない。

そして、きっとこう言われることがある。「なぜこんなこともできないのか」と。

ここに「いきづらさ」のひとつが見えるように思う。

生きづらさは、社会のなかで「普通」とされていることと比較して自分が「できない」ことのジレンマや自責の中に生まれている。

うまく「思えない」という、周囲からはわかりにくい理由がある場合にどうやって伝えたらいいというのだろう?
それを真面目に説明すればするほど、冷たい視線にさらされるのではないだろうか。

*誰にでもわかることなのに

ところが、これは誰にでもわかるようなことが原因だったりする。
みんな、舞台にたったときに「あがる」ということは、わかるだろう。
よい緊張は、よいパフォーマンスになるけれど、悪い緊張はパフォーマンスをさげる。悪い緊張を「あがる」という。

気持ちの余裕がなるなると、人は思考がおぼつかなくなる。「うまく思えない」から身体が連動して動かなくなり、普段できるはずのことができなくなってしまう。

声がうわずったり、ギクシャクしたり、言葉がでてこなかったり、汗をかいたり、手足が震えたりする。それはほぼ誰でも気持ちがわかることだろう。

しかし、これがもし日常的に、ずっと「あがった」状態だという人がいたら、その気持ちがわかる、という人はぐっと少なくなる。

ずっと舞台にたたされて「あがっている」ような状態で、うまく思う、考えることができない人がいるのだ。

それは、誰でも理解できるその状態が、「ずっと続いてる」ということだけで、簡単には信じてはもらえない。

*「普通」という亡霊

一般の人はそれを「慣れ」で克服できるとおもっている。みんな場数を踏めば「慣れ」て当たり前で、「普通は」できるものだと言う。努力が足りない、経験が足りない、と平気で言うのだ。

「いきづらさ」には、
「普通」という亡霊がつきまとっている。

「慣れ」で克服できるのが大多数だとして、それが「普通」で構わないが、なぜそれに当てはまらない人が、無理を強いられないといけないのだろうか?

無理はつらい。ということだって
本当に、だれでもわかることだ。
でも、「普通」と比較されることで、一日中無理をしつづけなければいけないひとがいる。
やはり、その気持ちは理解されにくい。

*よりそいのかたち。

いきづらさと向き合うとき、
いつも大切なことが欠けている。

「できない」を「できる」にすることが大切なのではないように思う。できるように行動すること自体が非常に困難な人にとっては、支援することが「つらさ」を倍増させることになる。

それじゃやっていることが真反対だ。

それよりまず「つらい」といっている人の「つらさ」とはなにか。
それに耳を傾ける、ということが、まずはじめにできることで、もっとも完結している理解や協力の形ではないだろうか。

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