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すべては親のせいにしてみたらいい。そうしたら気づいてしまうだろう。

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僕たちの潜在意識は、こどものころの体験によって形づくられているところが大きい。そこには物心がつく前に養われた価値観が、静かな顔をして頑固に腰を据えている。

ふだん気にもとめないようなことでも、僕たちは生活の中で様々なことに小さな決断を繰り返している。赤にするか青にするか、カレーにするかパスタにするか、ぼーっとして何も考えてないようなときや、無心でなにかをしているようなときでも、ずっと判断・決断をしている。

しっかりと考えて判断するときは「顕在意識」が主導権を握る。日常的な小さな判断のほうが無意識的で、そこでは「潜在意識」のほうが何を選ぶかを決めている。

なにが美しく、なにが醜く、なにが尊いのか。どんなことに価値があり、世の中の基準はなにか。と普通は考えて決めることを、無意識に、考える暇もなく決定する「基準」はいったどこにあるのだろう?

これは、とても大切なことで、僕たちは、しっかりと物事に向き合って考える時間よりも、日々繰り返されるような「当たり前の出来事」に費やす時間の方が圧倒的に多い。ということは、重要に思われる単発の判断よりも、膨大な小さな判断の蓄積のほうが、自分の人生を自分たらしめていることになるからだ。

この潜在意識というのは「自分で意識することができないほど、自分にとって基本的な事柄」の集積地。そしてそれを形成したのは、生まれてからこの世界の概念を学び、初めての社会経験を迎える、幼少期。

しかし、幼少期は自分ですべての取捨選択をコントロールできるわけじゃない。物事を判断するための、概念そのものを得るより前に、自分であれこれ判断することはできないからだ。
するとつまり、その概念のフォーマットは親のコピーデータを元にしてスタートすることになる。すべては親による。親が与えた環境と価値観によることになる。

親を越えよう。すべては親の刷り込みだ。親との関係が原因だ。
自己啓発やメンタルブロックに関するものは、ここ最近「親」の話題が多いように感じている。確かに、親から受けついた価値観の基準概念がなければ、この人生をスタートすることができないのだから、親の影響が一番大きいのは当たり前なのだ。

すると、その影響が、自分にとって受け入れがたい事象に結びついたり、自分の理想を阻害するようなベクトルで働いてしまうと、それは確かに「親のせい」だと言えてしまう。
様々な軋轢を感じたり、思い通りに自分を表現できなかったり、結果、生きにくさを抱え、どんなに正そうとしても、自分で修正することのできないやりきれなさ、など。

自分がどうしようもできない事柄は、それを刷り込んだ存在の責任なのだ。
目の前の都合の悪いこと、元をただせば、すべて親のせいだ。
こんな風に育てて、いったいどうしてくれるんだ???

「親のせい」だ。

そう思えたら、何が変わるだろう。
ほっとできるかもしれない。辛かったことを、辛い、と言えた開放感。
きっと、何かしらの癒しを感じられるような気がする。

それは、自分を受け入れ、親を受け入れることとつながっているように思う。絶対的な存在である「親」が「間違っていたんだ」と、そう考えてみることで、親を許すことができる。

ただ、抱えている問題が、何か変わるわけじゃない。
いくらでも親のせいにできるけれども、別に、何も進まない。
むしろ、見えてくるのは、なぜ「自分」が主導権をにぎらないのか、ということだ。

実は、こういうことなんだと思う。
「すべてを親のせいにする」というのは、
「すべては自分のせいだ」と気づくための階段なんだ。

だから、本気で、親のせいにしていい、と僕は思う。
昨日までの自分の失敗も、自分への不満も、すべて親の責任。
そう思ってみることが「親」を受け入れることにつながっている。

では、親の舵にまかせて、文句だけをいう自分になるのか。
自分で舵をとるのか。

その事実だけになってしまう。
そう気づいてしまうんだ。

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