夏の読書メモ

 ちょっと思考の焦点が合うようになってきた。ここ一年近く、ずっと思考のピントがずれていて、何て言うんですかね、虫眼鏡で太陽光線を集める時に焦点を合わせてそのままじっと待つ、みたいなことができないというか、焦点が合ったと思ったらぼやけるというか、そもそも焦点が合わないというか、いやいや前提として虫眼鏡持ってましたっけ?、みたいな状態が続いていたのであった。その結果いろいろなところで「この人ダイジョウブですか? 使えないんじゃないですか? あはん」みたいなことが続いている気がする(現在進行形)。それが少し思考の焦点が合うようになってきた気がする。とはいえ、考えるための持久力がまだまだ足りていない。困ったことである。自分の頭で考えられなければどうしたらよいのであろうか。外では秋の虫が泣き始めた。えーん。違う。鳴き始めた。

 そうはいっても、思考の焦点が合うようになってきた。読書感想文を書けと言われたらちょっとは書ける気がする。どうしてかというとぼくはおとなだからなのです。ふへっ。どんな態度やねん、自分。



 ある日、本屋で文庫本を眺めているうちに、新潮文庫の海外作家の棚の前へきた。わたしは長い間、日本語の理解さえおぼつかないのに海外作品は読めないと思っていたのである。海外の言葉で書かれたそれを直接的に読むことはできず翻訳がどの程度のものかもわからないのに原作のニュアンスや手触りがわかるわけがないと、そう思い込んで過ごしてきたのである。

 ここのところそのような偏見からやっと脱出できそうな気がしていて、そのきっかけは、複眼的に物事をみるという至って単純なこころの動きであった。
 単一の視点から語られた文章は、その価値観が共有されている者には理解できるがその外側の者に理解されるかどうか不明である。内輪受けという言葉があるが、実はわたしは狭い世界の符牒を共有するだけで満足する、そういう視野しか持っていないのではないかと自らに問いかけてみたところ、反論する材料をひとつも持っていないのであった。

 これまでわたしがものごとを理解するにあたって手助けをしてくれたのは、自分の軸を説明するためにそれ以外の説明方法を持っている人たちであった。彼らは自らの価値観を相対化して、一般的な座標軸をもち出した際に自分の立ち位置を迷わず指差せるのである。人にものごとを説明するとはそういうことであって、内輪の符牒に留まっていてはそこからみている世間がどれほどの広さか説明できないし、その外側の世界がどれほどのものか理解できないばかりか、外側に世界があることすら気づかないときもある。

 そう思いながら新潮文庫の棚で目についたのはトルストイであった。長編のうちの一冊を棚から手に取ってぱらぱらと眺めていると、本が「読め」と言ってくる。それは「この作品を読め」という直接的なものではなくて、もっと大きな世界、今まで読んでこなかったものがたりの世界をもっと知りなさい、という示唆のようなものであった。わたしはものがたりを読んでみようと思ったのである。そして手に取った1冊を棚へ戻した。え、戻したんですか。戻しました。マジですか。マジです。

 ものがたりの世界は、その世界へ入り込むまでの舞台設営(設営という言葉が適切かどうかはわからないが、その世界へ没入すべく心を馴染ませる助走)があり、そこからが本番である。そうなれば必然的にものがたりは長編の体裁を取る。わたしは何分冊かになっているトルストイの作品の収まった棚の前で「何冊にも分けなければならないものがたりがあるとはつまり、こんなに長いあいだその世界観に浸って楽しめるのか。うれしいことだ」という考えが浮かび、しかし先ほどトルストイの本は棚へ戻した。なんでやねん。なぜならば家の本棚にはドストエフスキーがあり、それをもう一度読んでみようと思ったからである。文庫本の購入すら惜しむ吝嗇は誰だ〜い? アタシだよ! 

 そういうことがあって、ここしばらく何冊かの本を読んでいた。ネットワークを遮断して静かに本を読む体感時間は長く、質の低いニュースサイトや動画サイトで時間を食うのとは大違いであった。読み進めて視線を上げるごとに別の世界から帰ってきたような心持ちがした。

 わたしにとってものがたりはこれまで、大きな意味を持ったものとは言えなかった。現実世界において私を含めた個々の人間がある種のものがたりを作り出して軌跡を描いているというぼんやりとした自覚はあって、確かにわたしが書き留めているものは他人に代替の利かないものではある。そこまで考えたところで自分の容量がいっぱいになっていて他人の作ったものがたりが必要なのかよくわかっていなかったような気がする。

 それが偶然にもトルストイに促されてものがたりに触れようとしているのは、今の自分には他人の作りだすものがたりに求めるものがあるからだろう。それが何なのかわからない。少なくとも「こういうものを求めています」と店先で要領よく説明できる類のものではなさそうだ。

 ものがたりを読むのは言葉にならない欲求のような感情を満たす手段に思える。ものがたりに求めるのは、調べ物への答えのような決まりきった言葉で表現されるものではない。そしてトルストイの本は家に無い。まだ言うか。

「主題は何でしょう、二十字以内で答えなさい」というようなテストがあったとして、その二十字がまず浮かんでくるのであれば、それは小説として書かれる必要性を持っていないと思います。


小川洋子 物語の役割

そうでありながら、読んでいたもののメモをする。本からの引用はせずに書いてみよう。
 いずれの作品もいろいろな切り口から感想を語れるものであって、わたしのメモはその1つを選んだに過ぎず、作品を通して自分のものの見方を整理した程度である。

 書きながら、ものがたりを読むっていいことだな、と思った。




 このシリーズは児童文学といわれているようだが、児童文学とは「子供であってもその魅力が十分に理解できる良質のものがたり」であると思う。
 このものがたりは水がキーワードになっていることもあってか心に潤いを与えるもののように感じた。ファンタジーかくあるべし、というお手本に思える。
 このものがたりにおいて伝承が重要な鍵となる。昔話、伝承、フォークロアといったものはどうして言い伝えられるのだろう。伝え続けることは「自分が先人から渡されたものを守り、次の人へ渡すこと」である。先人が大切にしたからといって自分がそれと同じ価値を感じるかどうかは別の話になる。先人の大切にしたものを信頼し、次の世代が伝えてくれるものとして託す行動は、個々人の価値観よりも尊重すべきものがある、自分の生きる世界には個人の理解を超えた大切なものがある、というメッセージにも思える。
 個人が何気なく伝え続ける話は、その積み重ねがおおきな流れになって、伝承という重みが生まれる。個々人の勝手な都合とは次元の違う大切なものが込められているという解釈が事後的に生成することで、自分はその大切なものの運び手の一人だったのか、という帰属意識が生まれることもある。
 何だかわからないけれども大切な気がする、といったときに人はその理由をうまく説明できない。それはそもそも「わかるように端的に説明しなさい」というものとは別の世界にあるのだ。その肌感覚・直感を信じられる人はきっと幸せを掴む。わたしにはそのように思える。



 自分らしさとはなにかをテーマに据えたヨシタケシンスケの絵本に「ぼくのニセモノをつくるには」がある。自分を理解することを考えるきっかけになり、目線をずらせばそのまま他人を理解するとはどういうことか、と考えることにつながる。
 人が人を理解するとはどういうことだろう。どうしたら理解したことになるのか。少なくとも自分にとって都合のいいところだけを聞いてほしかったり、実際以上に自分を大きく見せて満足するようなことではない。
 たとえばひとつの出来事だけをとってもよろこびや悲しみといったひとつの単語で表せるものではない。その出来事が大きければ大きいほど、人に言えないどころか、自分にさえうまく説明できなくなる。その一部を言葉にしてみたらバランスを欠いたものになり、別の角度から表現すると舌足らずになる。自分が実感する物事の大きさと自分の持つ言葉の限界(あるいは言葉そのものの限界)との間に横たわる決定的な断絶を見た時に人は沈黙してしまう。
 このものがたりにおいてその沈黙は身体的な表現に代替される。他人とのやりとりにおいて言葉ではない身体的な手段を用いることは(言葉が人間の道具として発生する以前の手段という意味で)原始的なものではあるが、言葉以前の身体的行動によって他人と解り合えるのであれば、言葉に依るよりも深いやりとりになるようにも思える。
 オンラインでのやりとりが直接会うことに及ばない理由がここにあるともいえそうだ。



 この本は闇夜のカラスさんのご紹介で知った。ありがとうございます🌊

 後世の人は美術作品を見て「描き手はどういう人だったのだろう」と想像することがある。その作品が圧倒的であればあるほど、浮世離れした遠い世界に住んでいる人なのではないかと無意識のうちに描き手を遠ざけてしまう。
 しかしよくよく見ればその描き手は我々と変わらない日々を暮らしていた。人間関係に濃淡があり、家族に煩わされ、商売相手とのやり取りに悩み、自分の腕の未熟さに葛藤しながらも腹を括って進んでいく。いまの我々にとっての仕事と変わるところがない。残した成果が一流の美術作品かどうか、という違いはあるけれども。
 このものがたりは、葛飾応為を描くためにその外縁を丁寧に描写したものだ、と思った。時代に関わらず特定の人物のことを理解し切ることなど不可能なのだから、その外縁を緻密に埋めていくことで縁の内側にいる人物が動き出すまでそっとしておく。動き出せばそれはリアリティを持って読者に迫ってくる。そういうものではなかろうか。
 ここでいうリアリティとは現実や事実とは決定的に違う。それはフィクションでありながら「現実よりも現実味を感じる」ことであり、真に迫った世界の手触りを感じることである。
 事実や現実が目の前にありながらそれと異なって並行するもうひとつの世界を体験するのが、ものがたりをよむことである。美術作品を見たときに人は、それを知る前には無かったものの見方に気づくことがある。ものがたりの世界を体験するのはそれに似ている。



 ものがたり、というよりは私小説あるいは題名のとおり「記録」になるだろうか。「4年に渡る獄中体験がここに! 19世紀の監獄レポート in シベリア」とポップをつけたいくらいである。わたしは遠い国のものがたりとして読んだ。そしてそれは事実である。
 この作品は実際に収監された作者が何人もの囚人をサンプルとして、人間のもつ本質を多角的に考察したものに思える。囚人のレッテルを貼られるに至る個々人の足跡、そのできごとと心の動きはどのようなものか、囚人のレッテルを貼られたら人はどうなるのか。
 ここでは囚人の欲望が描写されるが、それは単純に「外の世界へ戻りたい」ということではなく、獄中で自分の思い通りに過ごしたいという欲求も含まれる。たとえば、与えられた作業により自尊心を満たすこと、法螺を吹いてまで他の囚人たちに自分を認めさせること、ただ酒に酔うひとときを得るために数ヶ月も耐え忍ぶこと、獄中でまで盗みの手腕を発揮すること……。それを欲望というひとつの単語に集約させると、説明には便利ではあるが、途端に違った肌触りになってしまう。言葉とはそういうものである。
 人間は欲望という一言でくくるにはあまりに多様である。それを囚人それぞれの持つ独立した具体的なエピソードとして順番に並べているようにも思える。
 ひとつのエピソードが単音の旋律だとすると、それらを重ねることで文学作品という交響曲が立体的に組み上がってくるような印象がある。交響曲の単音旋律を聴いただけでその全貌が分からないことくらいは、理解されるだろう。



 ゲド戦記の最終巻。わたしはまだ「ゲド戦記外伝」を読んでいない。理由もなくこちらを先に読んでみようと思った。
 ゲド戦記は読みやすいものがたりとは言えないように思う。ロシア文学のように一人の登場人物に対し複数の名前がつけられているのがそう思うひとつの理由である。このものがたりはしかしそういう世界のできごとを記したものであって、仮に自分がそういう世界に生まれ落ちたら疑問を持たずその世界のしきたりに従うだろう。ものがたりの世界に入り込むにはそのものがたりのルールを知ればよい。
 ゲド戦記は竜の出てくるものがたりではある。その描かれ方は必ずしもヒロイックではないが読み手に畏怖の念を起こさせるもので、それと対峙する登場人物は毅然として頼もしくみえる。
 この最終巻はある種の静けさを保って淡々と時間が経過するように思える。それは1巻「影との戦い」で葛藤し成長したゲドの過ごした時間ではなく、老境に至った現在を生きるゲドの体感する時間のようにも思える。
 かつて1つの種族だった竜と人間がそれぞれの望むように生きるため別々の種族となった世界において、何世代も前に先祖が判断したものごとは、自分の世代だけの問題、あるいは自分だけの問題として捉えられたときに「どうして今の世界はこんなに理不尽なのだ」という形で表現されることがある。過去に自ら選択して種族として別れたにも関わらず、世代を経て竜は人間へ、人間は竜への羨望をもつようになったのだ。羨望は争いの種を蒔く。
 その解決への道のりは、お互いが歩み寄り話し合うなかで今に至る背景を共有することが出発点になる。出発点に至るにはものごとを俯瞰する視点と相手を理解しようとする想像力が要る。




  いま読み進めている本も何冊かあるけれども、とりあえずこの程度で。また書きたくなったときにちょちょいとまとめることにする。