見出し画像

短編小説 国際ボディー(人体)見本市に行ってきた。(990字)

人間の夢だった永遠の命が、与えられて久しい。
人が自由にボディーを変え、選べるようになって、どれ位たったのだろうか。
人類は不老不死を手に入れたのだが、しかし全体の寿命は僅かに伸びたに過ぎない、死亡率は変わっていない、皮肉なことに人の精神が長寿に対応できないのである。結局個々の精神の限界点に行き着いて、ボディーの買い替えもせず、死を向かへ入れてしまうのである。最近はそんな恨み節が多く聞かれるようになった。

しかし恒例の新ボディー発表会は時代を写す鏡であり人々の関心は尽きない。会場には、むかしで言う蝋人形の様なボディーが、年代、人種、性別、労働別に並んでいる。
今年から健康労働省の補助率が変わり私の場合一割負担で新ボディーが手に入る。
私は日頃からボディーの乗り換えには否定的なのだが、七十を越して、足回り、特に右の足に軋みがあり、長時間の歩行が困難になり、そんな訳で会場を訪れたのである。
乗換ボディーがマーケットに発売された当初は、自主規制も無く、フェイスの良い、人気女優、男優モデルが爆発的に売れた。街の中は、カッコイイ美男美女で溢れ返った、次にやって来たのは差別化の嵐で、力がある、喧嘩に強い、背が高い、足が速い、男女問わずもてるセックスアピールの強いボディー、耐久性のあるボディー、等が持て囃された。また倒錯した一部のマニアには、男性の精神を持ちながら、好みの女優モデルに乗り換えて自慰に明け暮れるやからや、勿論その逆も有り、この動きを見逃さないメーカーは、リバーシバルモデルをつくり売り出した。ただ不思議な事は、各メーカーとも生殖器周りの装飾の違いはあるが、生殖器の大小はあっても他は共通でオス、メス両方を持つ変化は無かった。
乗換ボディーの出現時の社会的混乱に対して、賢明な政府は規制をせず、混乱しながらも、倫理観が社会マーケットを落ち着かせるのを待った。
現時点で得た結論は、ボディーよりも精神が優先すると言う事である。

私のボディーの下見だが、気に入るものが無い、それはそうだ七十年も使った体ボディーだ、傷も、皺も、衰えも私の歴史だ。
このボディーには私自身が染み出ている。
私自身を否定する為なら別だが、過去を捨てないなら優るものなどない。
結局、かかりつけの医師に寄って右足の痛みの処方薬を貰う事にした。
私はボディーの乗り換えを辞めた。

                おわり。





この記事が参加している募集

文学フリマ

よろしければサポートよろしくお願いします。励みになります。