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常識に還れ

どうも、犬井です。

今回紹介する本は、福田恆存の『常識に還れ』(1960)です。この作品は、福田恆存が初めて政治に口を出した『平和論に対する疑問』(1954)に続く著書であり、「安保闘争」に対する知識人の態度を批判したものです。前作以上に政治的な色合いが強い本書は、福田恆存の政治観や政治的立場が明確に示されています。

それでは、以下で簡単に内容をまとめていこうと思います。

私の保守主義観

私の生き方ないし考え方の根本は保守的であるが、自分を保守主義者だとは考えない。革新派が改革主義を掲げるようには、保守派は保守主義を奉じるべきではないと思うからだ

普通、最初に保守主義というものがあって、それに対抗するものとして改革主義が生じたように思われがちだが、それは間違っている。最初の自己意識は、言い換えれば自分を遮る障害物の発見は、まず現状不満派に生じたのである。そして、先に自己を意識し「敵」を発見した方が、自分と対象との関係を、世界や歴史の中で自分の果たす役割を、先んじて規定し説明しなければならない。こうして革新派の方が先にイデオロギーを必要とし、改革主義の発生を見るのである。保守派は「敵」に攻撃されて初めて自分を敵視する「敵」の存在を確認し、自分が保守派であることに気づく。したがって、保守主義はイデオロギーとして最初から遅れをとっており、それは本来、消極的、反動的であるべきものであって、積極的にその先回りをすべきでない

進歩や改革に対して洋の東西を問わず、保守派と改革派とが示す差異は、前者はただそれを「希望」しているだけなのに反して、後者はそれを「義務」と心得るということにある。保守派は進歩ということを自分の「生活感情」のうちに適当に位置付けておけばよいのだが、革新派はそれを「世界観」に結びつけねばならない

要するに、保守派は進歩を欲する動機や気持ちを、あるいはそれを欲しない気持ちを説明する必要がないのに反して、革新派それを常に説明して見せなければならない。したがって、改革主義は合理主義の上に立たねばならないし、それに救いを求めねばならないのだ。逆に、保守派が合理的でないのは当然なのだ。むしろそれは合理的であってはならぬ。保守的な生き方、考え方というのは、主体である自己についても、全てが見出されているという観念をしりぞけ、自分の知らぬ自分というものを尊重することなのだ

こうした本質論によって言いたいのは、保守的な態度というものはあっても、保守主義などというものはありえないということだ。保守派はその態度によって人を納得させるべきであって、イデオロギーによって承服させるべきでないし、またそんなことはできぬはずである。保守派は無知であろうと、頑迷と言われようと、まず素直で正直であれば良い。常識に従い、素手で行なって、それで倒れたなら、その時は万事を革新派に譲れば良いではないか。

進歩主義の自己欺瞞

欧米先進国においては、たとえその進歩が価値であったとしても、それは最高の価値にまで祭り上げられない。なぜならそれは未知の世界に、実験されたことのない世界に、一歩を踏み出す賭けであり、したがって取り返しのつかぬ失敗を犯すかも知れぬ危険を伴っているからである。

しかし、近代日本においては、その先進国が歩んで成功した、いわば実験済み、保証付きの方法によって、すでに実現されてる保証付の目的地に向かって歩き出すことでしかなかった。こうして人は進歩の前で疑う必要がなく、それを疑う余裕を持たず、自由といえば、ただそれに邁進し、それに囚われるのみの自由を意味するようになった。

しかし、自然は変化し進歩するものである。進歩は自然そのものである。したがって、本質的に考えれば、進歩は必然悪なのだ。それが良い場合においては、必然善になる。つまり、善悪を超えた必然だということに過ぎない。さらにいえば、それは最も良き場合においてさえ、それ自身に固有の必然悪を伴い、最も悪しき場合にさえ、それ自身に固有の必然善を伴う。

進歩主義にあっては、その自覚が欠けている。日本の進歩主義者は、進歩主義そのもののうちに、そして自分自身のうちに、最も悪質なファシストや犯罪者におけるのと全く同質の悪が潜んでいることを自覚していない。正義と過失とが、愛他と自愛とが、建設と破壊とが同じ一つのエネルギーであることを、彼らは理解しない。

その何よりの証拠に、彼らは一人の例外もなく不寛容である。自分だけが人間の幸福のあり方を知っており、自分だけが日本の、世界の未来を見通しており、万人が自分についてくるべきだと確信している。そこには一滴のユーモアもない。ユーモアとは、感情も知性と同じ資格と権利を有することを、私たちの生全体を持って容認することだ。過去も未来と同様の生存権を有し、未来も過去と同様に無であることを、私たちの現在を通して知ることだ。そこにしか私たちの「生き方」はない。それが寛容であり、文化感覚というものだ。

文化破壊の文化政策

文化と文化政策とは全く相容れない。文化はまずものを愛することから始まるが、文化政策はその意義づけから始まる。前者は目的なしに楽しみ、後者は人をある方向に支配することを目的とする。現代の私たちの文化について、最も重大な問題は何かと問われれば、文化政策が文化を覆ってしまい、文化政策を文化だと勘違いしかねない状況である。

日本人の文化に西洋と対等の、あるいはそれに優る美点を見出そうとすることも、一歩あやまてば、文化政策的思考法を誘発するであろう。美点とは他者との比較による価値であり、意義づけである。それがなければ愛せないというのも、自信を持つためにはそれがいるというのも全くおかしな話ではないか。

政治、経済、外交などと異なり、文化に関する限り、私たちは優劣や希望絶望の観点からも見ない方が良い。文化に関する限り、長所は必ず短所に通じるものなのだ。一番大切なことは、自分の長所を知ってそれを助長し、短所を知ってそれを抑制するということよりも、長短とは関わりなく、日本の文化は私たちの「生き方」なのだからという、ただそれだけの理由でそれを愛し、それに自信を持つことである

もし私たちが、ものを愛し造る職人を、それを意義づけし、目的を強いる文化人よりも尊重するように心がけさえしたら、日本の文化は今よりも「良く」なるであろうとは言わない。「深く」なり「厚み」を増すであろう

常識に還れ

今の世の中には、ことに進歩派には何もかも揃っているのに、常識だけが欠けている。故意にそうしたかのように、常識だけが欠けている。

職人は少し手のこんだ仕事をする時、あらかじめ寸法を出さずに「物に教わってゆこう」と言う。常識とは現実に従い、現実に教えられる考え方であり、生き方である。が、人々は現実に従う前に、現実を解釈し解決することを急ぐ。その物差しにはあらゆる目盛りが刻み込まれている。歴史、科学、憲法、平和、進歩、民主化、市民、大衆の自覚、政治的闘心、階級意識、等々、寸法書には一部の狂いもない。

驚くべきことに、現実すらそれらの目盛りの一つと化している。現実に教わる余地など出てこようはずがない。常識がしりぞけられて、その代わりに、屁理屈、感傷、憎悪、興奮、自己陶酔、固定観念が横行する。今に始まった事ではないが、最近、それがひどすぎる。何よりもまず常識に還ることだ。そうすれば、その向こうに何があるか、また何がないか、現実の姿がはっきり見えてくるだろう。

あとがき

福田恆存は1960年の段階で、世の中に「常識」が欠けていることを嘆いています。いわんや2020年をや、と言いたいところですが、そもそも福田恆存のいう「常識」とはどういうものでしょうか。

福田は、常識とは『現実に従い、現実に教えられる考え方であり、生き方である』と言います。もちろん字面の通り意味を読み取ってもよいのですが、現代を生きる私たちの肌感覚にあうように、もう少し言葉の意味を考えてみましょう。

元来、福田の論争文は、現実の相対性を前提に、その条件を無視して造られた「建造物」の脆弱さ、もしくは筋の通らない「フィクション」に対する批判としてありました。つまり、「相対」的な現実の中で、現地解決主義が成り立つには、不動の「絶対」主義が必要なはずであるという批判です。

なるほど、確かに揺るがぬ「絶対」的なものがなければ、現実の上に築かれた「建造物」は脆弱であろうし、「物語」も支離滅裂なものとなるでしょう。

では、その「絶対」とは何か。それこそが、福田のいう「常識」というものでしょう。この徹頭徹尾相対的な世の中で、なお、私を、この私たらしめているものを自覚する生き方。それこそが、「常識」なのです。私と、私が住むまちや国の歴史、及び自然との繋がり。日本語を母国語とし、日本語の世界でものを見て、考える私。こうしたことを自覚する生き方こそが「常識」であり、この中では、イデオロギーの入り込む余地などありません。

では、「常識」が世の中に欠けている場合はどうなるでしょうか。それこそ、福田が本書を書いた当時のように、マルクス主義の唯物論とか、そういったイデオロギーが流行り、何か世界平和がどうのとか、そういう言説が溢れるような世界なのでしょう。そうではなく、例えば電柱を埋設しようとか、地震が起きても大丈夫なようにインフラ整備をしようとか、そんな単純明快な普通のことに腐心すること、それこそが常識に還るということなのでしょう。

さて、あとがき冒頭に戻ると、やはり現代は「常識」が欠けていると言わざるを得ない。GDPだとか、グローバリズムだとか、プライマリーバランスだとか、いい加減にしていただきたい。あるいは、自己と他者を相対化させ、他者を嘲笑し、そこに自己の絶対を見出そうとするマウンティング文化というか、そうしたものが流行っている。それも、「常識」という「絶対」的なものの支えを失い、徹底的に「相対」的な現実に抗うすべを失ったから故なのでしょう。

果たせるかな、福田恆存の思想は理解されなかったのである。

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