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富国と強兵

中野剛志(2016)『富国と強兵—地政経済学序説—』、東洋経済新報社

 なぜ主流派経済学は正しい貨幣観を得ることができないのでしょうか。なぜ新自由主義はかくも頑健なのでしょうか。なぜ日本はバブル経済を経験し、その後の長い停滞を抜け出すことができないのでしょうか。なぜ中国は東アジアにおけるアメリカの覇権に対して挑戦できるほどの大国になりえたのでしょうか。

 本書は、こうした様々な問いに対して、地政学と経済学を融合させた「地政経済学」という視座に基づいて、答えを提示しています。「地政経済学」という言葉にはあまり聞き馴染みがないかもしれません。というのは、この学問分野は、著者がおよそ25年に及ぶ研究の末に生み出した、新たな理論体系だからです。著者は、この分野を築くにあたって、数多くの理論家や歴史家たちの碩学を積み石としています。本書の緒言では、以下のように名前が挙げられています。

 この地政経済学なる理論は、何の躊躇もなく認めるが、筆者の独創を誇るようなものではない。むしろ本書は、数多くの先行研究を動員することで成り立っている。順不同で言えば、ハルフォード・マッキンダー、オットー・ヒンツェ、ゲオルグ・フリードリヒ・クナップ、ゲオルグ・ジンメル、ウィリアム・アシュリー、ジョン・メイナード・ケインズ、ジョン・R・コモンズ、ジョン・デューイ、ジョセフ・アロイス・シュンペーター、カール・ポランニー、アバ・P・ラーナーといった二十世紀前半に活躍した理論家たちの古典的著作の解釈がその基礎にある。また、ウィリアム・マクニール、ポール・ケネディ、チャールズ・ティリー、ジョン・ブリュワー、シーダ・スコッチポル、ピーター・グルヴィッチ、マイケル・マン、アンソニー・ギデンス、ベネディクト・アンダーソン、アンソニー・スミス、アルフレッド・チャンドラー、チャールズ・A・E・グッドハート、ハイマン・ミンスキー、L・ランダル・レイといった現代の卓越した歴史家や理論家たちの業績にも多くを負っている。——緒言 p.3-4

 全体の議論を踏まえれば、フリードリヒ・リストとアレクサンダー・ハミルトン、ブライアン・アーサーといった名前も加えることができるでしょう。しかし、これだけ多くの歴史家・理論家の説を検討するという「量」もさることながら、その「質」の高さにも驚かされます。著者の他の著書にも通ずることですが、著者の筆致には、過去の歴史家や理論家たちに他の誰とも異なる光の当て方をすることで、新たなパースペクティブを提示するという特徴があります。本書の中で例を挙げると、地政学の分野でスポットを浴びがちなマッキンダーに対して、国民経済の発展を目指す地政「経済」学の面からも、その理論を紐解いたことです。他には、ケインズ革命の力点が消費関数あるいは流動性選好説にあるとする二つの主流の理解と異なり、「信用貨幣論」と「表券主義」を結合させた経済理論を提示したことにあるとしています。こうした著者独自の洞察が、地政経済学を「古くも新しい社会科学」たらしめているのでしょう。

 さて、「地政経済学とは何か」について簡潔にまとめたいところですが、終章で、著者自身が「終章というものは、これまでの議論のまとめを記すものであるが、本書の主張を要約するのは容易ではない。」と述べているように、私の手に余るというのが正直なところです。したがって、精緻な「地政経済学」は本書を読んでいただくことにして、以下では、私なりの「地政経済学」の理解というものを書いていこうと思います。

不確実性と制度

 「地政経済学」とは、「富国」と「強兵」の間の相互作用という極めて複雑な動態を分析する社会科学である。その分析には、政治、軍事、経済、社会、歴史、地理などの諸学を関連させ、総合的に動員する必要がある。その作業にあたり、諸学の間に共通の了解が成立している必要がある。

 それは、「人間とは、不確実な未来に向けて、一定の予想や期待を抱きつつ、現在において行動する存在である」という了解である。
 未来の予想や期待を形成するために、人間は他の人々と一定の行動様式を共有し、その行動様式に従って行動する。この行動様式が「制度」であり、諸々の制度を共有する集団が「社会」である。人間は、社会の一員を構成し、社会が共有する制度に従って行動し、同時に、社会の他の構成員も制度に従って行動するであろうと期待することができる。
 このように、制度が社会において共有されていることによって、他者がどのような行動を取るかについての見通しが立ち、未来の不確実性が減殺され、人間はより確信を持って行動することができる。他者との協力行動や集団行動も容易になる。

 以上より、地政経済学における人間という存在は、その嗜好や目的が他者や環境の影響を受けて形成されるものである。したがって、地政経済学の分析にあたり、社会から完全に孤立して想定するような「方法論的個人主義」ではなく、人と人の間の「社会関係」を出発点としなければならない。

領域国家

 人間は、そうした社会関係を築くにあたり様々な制約を受ける。その制約の一つが地理的条件である。土地は気候や地形、資源によって、その土地に住む人々の生活様式を決定し、彼らの性質や思考様式を形成していく。その地理的空間に対する支配権の主張が「領土性」である。領土は、「領土性」の実践を通じて創出され、「我々/彼ら」という区別に、物理的な実態と象徴的な意味を与えるものとなる。
 この領土内で、政治的権威が一つの公的権威として統一されているものが、「領域国家」である。領域国家は国境の画定にあたり、情報収集や監視を行う行政機構が必要である。また、それを可能とする機械化された輸送・通信システムの整備や公式統計など国家の情報収集活動の進歩も要する。したがって、領域国家の出現は、近代官僚制や産業資本主義の発展とも密接な関係にある。

 政治的権力には、国家エリートが市民社会に対し、一方的に強制する「専制権力」と、市民社会と交流・調整し様々な制度を通じて政治的決定を行う「インフラストラクチャー的権力」がある。後者の権力は、通貨、警察、公衆衛生、社会保障、交通、通信、教育といった社会を支える広範な公的制度を通じて、人々の生活を日常的に管理する。これらの制度を一元的に管理する公的権力の中央集権化・一元化を領土内で実現した国家形態が、領域国家である。

 領域国家は、領域内の人々に、私有財産権所有などの権利を与えると同時に、租税などの義務を課す。このように、権利を付与し、義務を課す人々の範囲の有力な基準は、ネイションである。他人に過ぎない弱者や少数者の保護、あるいは関わりのない地方のインフラ整備などの費用負担に同意できるのは、彼らが同じ共同体に属し、自分たちの同胞であるという意識を持つことができるからである。
 これらを踏まえると、ネイションは、「歴史的領土、共通の神話や歴史的記憶、大衆、公的文化、共通の経済、全ての構成員に対して共通の法的権利義務を共有する、想像の共同体」と定義することができる。

資本主義

 領域国家は、国内で通貨を統一することで、国内経済取引を円滑にし、領土内の市場の統合を進めることができる。この通貨は、政府が租税の支払い手段として受領することで、通貨に基盤的な価値が付与され、国内に流通する。この意味で、通貨は政府の負債と見なすことができる。
 また、近代以降に登場した銀行という制度は、政府が政府自身の負債(通貨)を受け取るのと同様に、銀行自身の負債(預金)を借り手からの返済手段として受け取ることを約束している。これにより、巨額の設備投資を要する大規模な生産活動を営むことが可能になった。

 こうした信用貨幣論に立脚する資本主義は、小売市場と卸売市場からなる「商品市場」と、貨幣市場と資本市場からなる「負債市場」の二つの領域から構成される。商品市場では、需要の拡大は価格の上昇を招き、財や労働力への需要を抑制する価格メカニズムが働く。一方で、負債市場では、需要の拡大による価格の上昇は、将来の利益が増えるという期待から、むしろ財や労働力への需要を増やすため、債務の増加を抑制するメカニズムはない。資本主義は、異なるメカニズムによって動く「商品市場」と「負債市場」の断層の上にあるがゆえに、本質的に不安定なのである。
 そして、この不安定な資本主義を安定化させるには、機能的財政政策と中央銀行の金融政策こそが、最も有効な政策である。

国民国家への帰結

 過去千年の中で、都市連合、封建領主、教会、帝国など様々な統治形態が現れた。しかし、19世紀ごろから、領域国家と資本主義(あるいは別の形で市場の資源を動員する経済体系)を融合させた「資本化強制」型国家に収斂していくようになった。そのより発達した形態が「国民国家」である。

 国家形態が国民国家に収斂していった要因は、戦争である。国家は、戦争を勝ち抜くために、国内の資源を大規模かつ効率的に動員しようとする。統治形態が国民国家へと収斂していったのは、それが資源動員において最も高い能力を有していたからである。戦争が国家を生み、国家が戦争を生むのである。

 また、戦争による大規模な資源動員からは、国家体制だけでなく、様々な技術や制度が産み落とされた。大量生産方式、鉄道、航空機、ロケット、人工衛星、原子力エネルギー、コンピューター、インターネットといった技術、国民通貨、中央銀行、累進課税、福祉国家、「大きな政府」、財政出動、公式統計、国民経済計算といった制度は、いずれも戦争あるいは戦争準備を起源としている。
 技術や制度のみならず、重商主義、立憲主義や自由主義、平等化や民主化といった思想もまた、地政学的対立によって形成されたものである。

ゴーイング・コンサーンの地政経済学

 戦争によって生み出された技術、制度、思想は戦争終結後も、「民政化」あるいは「スピン・オフ」されて、平時における資源動員に活用されている。これは、社会の動態が、歴史的な事件や偶然の出来事が出発点として、一旦軌道に乗ると、その軌道は益々固定化し増幅する、「経路依存性」をもつからである。社会というものは、経路依存性のメカニズムを内部に持った人々の集団行動=「ゴーイング・コンサーン」なのである。

 このゴーイング・コンサーンは、時に不幸な結果をもたらす。例えば、国家という大規模な集団が戦争へ向かって運動を始めたとする。すると、いち国民がその後の不幸を悟り、反戦の意志を持ったとしても、戦争へ向かう国民集団の動きを阻止することはできないうえ、いち兵士として銃を取らざるを得なくなる時がある。
 しかし、現代においては、核の登場や軍事技術の高度化による職業軍人への依存により、国民全体を動員する総力戦という形態は廃れてしまっている。

 したがって、ゴーイング・コンサーンが国家の没落に向けた慣性を持っていても、健全な国民経済や持続的な国際平和の実現に向けて、国家の軌道を変更させる圧力としての地政学的対立を待つ必要はない。

あとがき

 20世紀初頭、ウィリアム・アシュリーやハルフォード・マッキンダー、あるいはジョン・メイナード・ケインズも、経済自由主義との思想戦に敗北を喫しました。本書では、彼らのように、当時主流であった考え方に真っ向から対峙し、その後の未来を正しく予見していながら、主張が受け入れられることなく埋もれていった理論家や歴史家たちが多く登場しています。著者は正しい主張が受け入れられなかった理由の一つに、「経路依存性」を挙げています。
 一方で、著者の本書での主張は、現在の日本では、明らかに非主流派の部類に属します。つまり、本書に基づけば、著者の主張がもし正しかったとしても(またその可能性が高くても)、受け入れられることなく埋もれていくことになります。このことは、どのように理解すればよいでしょうか。
 考えられるのは、著者自身が、正しいことを主張しながらも埋もれていった理論家たちに自身を投影させて、主張し続ける勇気をもらっているのかもしれないということです。というのは、もし本書で予想するような未来になったとしても、未来の世代が過去の文献を調べて本書を手に取った時に、正しいことを主張していた人がいたんだと、著者が過去の文献を読んだときと同じように、勇気づけられるだろうからです。もしそうならば、本書は若い世代やもう少し先の世代に向けて書かれたものかもしれません。
 とはいえ、本書の内容を盲従するつもりはありませんし、批判的読む姿勢も重要だと思います。ただ、今の私には、本書の内容に対抗するだけの武器を持ち合わせていません。したがって、今後何度も読み返すであろう一冊になりそうです。

では。

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