「経歴」「経験」は人へ情報伝達するための単なる「記号」

経歴や学歴はよく言われることだが、経験でさえ、他者に指標を示すための「記号」でしか無い。煌びやかな経歴の持ち主がどんな経緯でその経歴になったのか、どんな苦労があったり、出会いがあったり、数々の失敗や成功があり、一見オープンにしているように見えても、実際のところは他者が経歴を見てもわからない。

発信者としてはわかりやすく表現するために極端な表現をしていることもある。受け手にとってそれが魅力的な見え方であることを分かっていて、敢えてそう書いていることもよくある、というかほとんどそうでは無いかと思う。

受け手側はどんなことに気を付けなければいけないか。憧れるような経歴や経験を目にした時、「こんな経歴を持ちたい」と思うかもしれない。ついついそのまま自分もそうなれるんじゃ無いかと妄想までする。残念ながら全く同じ経歴どころか、そこにカスリもできないことがほとんど、というのが現実だと思う。

繰り返しになるが、経歴や学歴や、日常的な物で言えば、お金や自分の年齢も、全て単なる「記号」だ。その記号がその人の洗練された人間性を表現している訳ではなく、もちろんその記号でもアカデミックな世界の論文など、精密に作り上げられた作品などは存在するが、社会で量産されている記号は断片的な情報伝達の手段となっている。

自分にとっては抽象的な概念として存在しているイメージを他者に表現するために記号化、現物化する。前述したように、受け手はそれに騙されてはいけないが、ただ確かに「目印」として役に立つ。

その目印の周辺について調べたり、経験してみると、目印を与えてくれた人と自分の経験は全く違う物だということに気が付くはずだ。結局ゼロから自分で作るしかない、煌びやかな経歴を聞いて、自分が想像していた物とは全然違った。確かにそうかもしれない、むしろそれに気が付くことが本質と言える。最初は目印でも自分が近づいてみたり、実行してみると、このように全く新しい情報が手に入る。

これは煌びやかな経歴の方も知らない、自分だけの情報だ。その情報を元に新しく進めば良い。インターネットや本や人から聞いた情報は確かに記号ではあるが、行動の目印ともなる。人が人と接すること、情報を共有し合うことの効果はこういったところにあると思う。

あくまで「記号」ということを忘れず、自分自身で作るしかない、ということを念頭に置いて、マイルストーンは参考にしながらも、一歩ずつ自分の足で踏みしめながら、重みのある経験を積み重ねて行くこと。

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