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今日のぼくの良かったところどーこ?(7)

誰しもギフテッド

知的ギフティッド児である長男を育てながら、次男と長女も育てていると、「ギフテッド(ギフティッド)」という言葉が、本来は形容詞であることを思い出す。

我が子を見ていて、長男だけがギフテッドで、次男や長女はそうでは無い、なんてことはとてもではないが言う気になれない。

https://www.oxfordlearnersdictionaries.com/definition/english/gifted?q=gifted
同上

一方で、「ギフテッド」「特異な才能」「異能」など、この特性を語る際に共通名称が必要だとも感じている。でないと、毎回長々と説明するところから始めなくてはいけない。非常に手間だ。

そういった名称を使う際には、一定の定義が必要になるが、そうすると、その定義に当てはまらなかったらギフテッド(形容詞)ではないと言われているような気持ちになるのも分る。

踏み絵を前に、まずは名詞の方ですか?形容詞の方ですか?と確認したくなる。

ギフテッドについて話し合われる時、決して誰かを排除するような意味合いで使われることはないと認識しているが、一言断りを入れておかないと変な対立を生みかねない不都合な側面もあるなと思っている。実際、当事者としても使いにくいというか、他者に対して自ら使うことはまずない。

ついでなので、では、誰しもギフテッドなのであれば、何のタイプのギフテッドなのかという議論になって、「スポーツ」か「芸術」かみたいな話になり、ラベルのつけようが無かったりすると、結局ギフトは「ある」のか「ない」のかという話になって、「ある」前提で話を進めないでほしい、あるいは「ある」人だけが優遇されるような思想は良くないという議論になってしまいがちだ。

そうではなくて、誰しもギフテッド(形容詞)であったとしても、たまたまそのギフトが社会に予め「枠組み」があるような分野に当たってしまった場合、突き抜けている分、当たり前にとんでもなく不適合を起こす、ということに過ぎないのだと思っている。

ほかのギフトについても同じかもしれないが、ギフトによってはこういった枠らしきものがもう少し曖昧か柔軟な場合も多いのではないだろうか。あとは、数の力で制度側を変えやすいということもあると思う。

女性に関するものなども、社会に存在する”枠”のせいで能力が活かせず困っているという話に近いと思うが、人口の半分は女性な訳で、圧倒的に数の力がある。

一方で、いわゆる名詞の「ギフテッド」は人口の2%だとすると、今ようやくテーマとして炎上するにはしたが、期待したほどのムーブメントにはならないだろう。

そのため、あまり期待しすぎず、自分たちでできることを粛々と進める必要もあろうかと思う。

個人的には、一部の時代に合わないものを除いて、枠とか、どこかで線引きする、何か基準を設ける、というのは時に必要なことだと思う。何もないと逆に辛い。一方で、その枠や基準が自由に選べるくらい沢山あるか、枠自体が予め例外を想定してくれていると楽なのになと思う。

ギフテッドが「教えなくてもできる」であるならば

長男を育ててみて印象的なのは、「教えなくてもできる子」だったということだ。これは長男がゼロからあらゆる物事を発見したという意味ではもちろんない。

勝手に本を読んで、親の知らないうちに様々なことを理解し、他のことに関連付けて自分なりに発展させることが得意になったということ。

そしてこれは、次男に関しても同じように思うことで、親が教えたわけでもないのに、人が今こうしてもらったら喜ぶのではないかとか、自分がどう行動したら良い結果に繋がるのかということを、言われなくても考えて実行することができるということ。

以前こちらのnoteで、次男が兄のためにやってくれたエピソードを書いた。

次男のこういった行動は、親も真似できない。次男はどうしてこういうことが自然とできるのだろうね、という話は夫婦の間でもよくする話題だ。むしろ、教えられても誰もができることではないだろう。

それこそ、これは次男が生まれ持ってきた才能としか思えず、敢えてラベルをつけるとしたら、EQギフテッドになるのだろうと思う。

そういった意味で、ギフテッドとは?と訊かれたら、キーワードは「教えなくてもできる」あるいは「指示されなくても主体的に考えて次々と発展させられる」ということだと答えたいし、それが特定の物事に関して継続して観察される場合、それはその人のギフトなのだと考えている。

(8)につづく