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ギフテッドでもそんな困ってなかったのに(2)

価値観の押しつけに抗う長男

先日夫と話していて、学校が崩壊した年の担任と長男との関係は、菜食主義者であるヴィーガンと、そうではない肉類OKの人との関係に似ているかも知れないという話をした。

当時の担任vsギフテッド児である長男は、菜食主義者vs肉類OK派に例えられる。この担任は、のちに長男だけを不当に扱ったことを認めたが、それでも肉を食べる長男を問題児とみなす方針は変えなかった。

当時の担任は、肉を食べるなんて言語道断と、肉を食べる長男を処罰した。しかし長男は言わずもがな、肉類OK派の中でも群を抜き、人の何倍も肉を食べることを日常とした。

さらに、長男は食べるなと言われれば言われるほど、「肉のタンパク質は必要な栄養素であり何より美味い」と言って、先生の警告を無視して肉汁を垂らしながらこれ見よがしに食べた。余計なお世話だと。

なんなら「一口どう?」くらいのことは言ったのだろう。

報告を受けた問題行動の大半が今思えばこういった反発だったのだが、ここだけ切り出して報告を受けると、とんだ問題児ということになる。

菜食主義者には菜食主義者の考えがあるわけだが、それを人にも強要すれば反発が起きる。片方が強く出れば、もう片方もより強く反発する。それだけのことだった。

菜食主義者の中にも、自分は肉は食べないが、人にまで強要しない人もいる。これだと何ら問題なかっただろう。

実際、私の学生時代からの友人は、ベジタリアンで魚介は食べるが牛・鶏・豚は食べない。しかし、自分の子供には肉料理を作って食べさせている。

家族ぐるみで一緒にご飯を食べに行くときなどは、彼女がベジタリアンと知っているので、私がお店を予約する際には予めお店に相談し、ベジタリアン用に手配可能か確認している。彼女以外は全員肉をそこで食べている。何ら問題が起きることはない。

結論として、もし長男が当時のような扱いを受けず、個として普通に受け入れられていたら、なんらギフテッドであることで我が家が悩みを抱えることは無かっただろうと思う。

V字回復

現にその後、学年が変わって担任も変わったら、あのときは何だったのかと思うくらい学校生活とメンタルがV字回復している。まだまだ長男も気持ちの切り替えができないことはあるが、それでもV字回復であることは間違いない。

今の先生は、「習ってなかったら言ってはいけませんって言われたことある人いますか?はい、いますね。でも先生はそういうこと言わないので、どんどん言ってもらって良いですよ。そう言ったら発言したい人いますか?」と言う。これは参観日で聞いた言葉だ。

もしかしたら、私がいたから言ってくれた?なんて思いながら聞いてしまった。

そしたら本当に面白いことに、一旦は誰も追加の発言はなさそうな様子だったのに、手を挙げる子が出てきた。心理的安全性の効果は絶大だ。

それに、こういったアプローチは、別にギフテッドに限らずメリットがあったということだろう。

才能のある生徒への支援と聞くと大がかりなものをイメージするが、我が家が望むのはこういった枠に押し込めない、寄り添う先生の存在だ。それだけで居場所が見つかる。

「群盲象を評す」のギフテッド議論

長男がカウンセラーから「見る人によって、見え方が全く異なる子」と言われたことは、今、日本のギフテッド議論でも起きていると思う。

それに伴い、以下のような意見があるようだ。

天才ならサポートは不要。
優生思想で受け入れ難い。
そんなに出来るなら周りからどう評価されようと怖い物なしのはず。
ギフテッドなんて見たことない。
ギフテッド=コミュニケーション能力に問題がある。
公的資金を使って突出した人のための支援をすれば、利益を受けるのは突出した人だけになるので理解を得るのは難しい、等々。

「群盲象を評す」

人々はそれぞれの触った感触から感想を述べた。
しかし象に触れた盲目の人々は、象の体のすべてを触ったわけではなかった。そのため人々の感想はみな同じ1頭の象についてのものでありながら、その話す内容はみなバラバラだった。

たとえば、鼻に触れた人は、象という動物は御輿を担ぐときの棒のような生き物だと言い、牙に触れた人は杵のような生き物だと言い、耳に触れた人は箕のような生き物だと言い、足に触れた人は臼のような生き物だと言い、尻尾に触れた人は縄のような生き物だと言った。

盲目の人々はみな自分の感想こそが正しいと主張した。
象とはこのようなものであると。

ブッダという名前の意味が「目覚めた人」であるのと同じように、真理に目覚めていない人、真実に目を向けようとしない人を指して、「未だ目覚めぬ人」の意で「盲人」と表現しているというわけだ。

【群盲象を評す】平面的な意見と、立体的な真実の関係



ギフテッドと言っても範囲が広くて、確かに分りづらいと思う。一括りにはできないと思っている。

日本でようやくギフテッドの困り感について知られるようになって、特に学校の勉強が簡単過ぎて、学校のいわゆる”座学”に関しては学ぶことが無いという事実は、やはり理解しやすいのか、先に浸透した気がする。

しかし、これは事実だが、要するに枠に押し込めないでくれれば良いわけで、授業中に自分で進めたい課題や図書を持ち込めるなら、それで当面解決する場合もあると思う。

もちろん学力面からの支援も、適性にあった適切な学びという意味では必要だし、そこが個の特性をあるがままに受け入れてくれる居場所になるならあったほうが良い。

我が家が長男を見ていて一番感じることで、かつ、もっと深刻かつ長期にわたって悪影響がありそうなのは心理的な方で、例えば菜食主義者と肉食OK派で、価値観が違うだけなのに、肉を食べるなんてお前は人間として間違っていると虐げられるようなことが発生していることが問題なのだと思っている。子供がこの状態で自尊心を保てるわけがない

一般的に、ギフテッドへの支援というと、これまでも公教育で恩恵を受けていたところに、さらに上乗せで恩恵を受けるようなイメージなのかもしれないが、実態は違う。深刻な被害を食い止めるイメージだ。

我が家もあのような事が無ければ、今でもドラ息子がすみませんと学校に頭を下げ続けていたと思う。別にギフテッドなのだから優遇してくれなどと思ったこともないし、公立小学校にも素晴らしい先生は沢山いて、また次の年も持ち上がりをお願いしたくなる先生は何人もいた。

しかし、総じて言うと、ギフテッド、特にいわゆる知的ギフテッドを見ていると、今の標準教育は窮屈だし、他の子に比べると受けている恩恵は相対的に小さいか、実害が出てマイナスになることもあるだろうなと思う。これを何とかすべきという考えに違和感はない。

(3)につづく