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たわしくん


あるところに1人の男がいました。
30を過ぎた青年とは呼べないおじさん。
名前はたわし。誰に名付けられたわけでもなく、幼少期から自分自身の取っ付きにくさと、たわしの刺々しさを重ねて、なにやらこいつは僕に似ているな、と感じていた彼は、自分で名前を決めれるゲームやSNSで、積極的にその名前を使っていました。

たわし

その名を聞いて、何か分からない人は珍しいと思います。みんながあの焦茶色のチクチクした物体を思い浮かべるでしょう。

たわし

その名を自分のものとして扱う人も珍しく、どこでも1発で名前を覚えてもらえました。

そんなたわしくんは、3人兄弟の真ん中として生まれました。家を出ると一面お茶畑が広がっているような田舎で育ちました。

3人兄弟のたわしくんは、上には兄、下には妹がいます。

兄はいつも彼のライバルで、弟のために負けてあげるなんてことは1度もありませんでした。だから彼は、毎日ライバルを打ち負かすべく、あの手この手を考え、初めて兄を泣かせた時には満遍の笑みを浮かべて喜んだそうです。その時の写真を眺めながら、彼は当時のエピソードを事細かにお話できるほど鮮明に覚えています。このように偏った記憶力を備えているようです。

下の妹は、わんぱくで兄と仲良しでした。
無鉄砲な兄と、まだまだ幼なく後先考えない妹は、とてもウマが合うようで、三輪車を2人乗りで急な下り坂を爆走し、血だらけで帰ってきたり、まだ工事中の底のない滑り台を2人で滑って(落下、言うまでもなく)泣きながら帰ってきたりしていました。2人は仲が良い時もあれば、喧嘩をする時もありました。その時も兄はやはり手加減をしません。歳の離れた女の子なのに、傷だらけにすることもありました。たわしくんはそれが嫌でいつも間に入って兄と戦っていました。

たわしくんは気が付くと、兄の暴走を抑え、妹の様子を見ながら3人で仲良く遊べるよう考えるようになりました。もちろん喧嘩をすることもありましたが、3人仲良く遊ぶのはとても楽しかったと彼は語っています。

また、それを見た親戚のおばさんたちは、偉いね、すごいね、と彼を褒めてくれました。母親にも父親にもそのことについて褒められたことがなかったので、とても驚いたそうです。

それから時は流れて、たわしくんは小学生になりました。田舎なので、お友達はみんな穏やかで仲良しで、家が1番近かったチカちゃんとは、毎日手を繋いで登下校していました。帰ってきてからは、当時流行っていたゲームや遊戯王カードで兄と遊んだり戦ったりしていました。

ある時から兄が野球をしたいと言い出しました。仲のいい友達に誘われてのことです。
毎週、月水金の夕方は兄がいなくなりました。最初はゲームを独り占めできて喜んでいたのも束の間で、すぐに楽しくなくなり寂しくなりました。妹と遊ぶのはあんまり楽しくありません。彼は野球を遊びではやったことはありますが、サッカーの方が好きでした。昼休みは毎日サッカー部のお友達や上級生のお兄さんたちと一緒にサッカーをしていました。お兄さんたちは優しく、いつも彼を上手だと褒めてくれました。

たわしくんは、兄を見習って何かしようと思い、サッカー部に入りたいと母に打ち明けましたが、その時の困ったような渋った表情を見て、やっぱり野球にすると言いました。母は快諾してくれました。

彼は不本意ながら始めた野球では、6年生の兄とその同級生9人、5年生の4人、計14人を抑えて、4年生の時からショートでレギュラーでした。たわしくんには同じ野球部の同級生が10人いましたが、試合に出ていたのは彼だけでした。ショートというポジションは花形のポジションであり、決して簡単ではありませんでした。当然、ミスもします。そのせいで、失点して監督に怒鳴られた時には人前でも大泣きするくらいに彼はまだ幼かったのです。でも彼がミスをした分は、必ず上級生のお兄さんたちが取り返してくれます。そしてもう大丈夫だと頭を撫でてくれるのです。

父は兄に熱心に野球の指導をします。毎日のように近所の空き地まで3人でランニングして向かい、自主練をしていました。たわしくんは2人のお手伝いでした。兄が試合に出たら父も母も上機嫌でした。活躍したら兄の好きなお寿司でお祝いでした。たわしくんは試合に出て当たり前で、活躍して当たり前なので、ついででしか祝われたことがありませんでした。なので、その光景がとても不思議でした。"僕はトンカツが好きなのに"と嬉しそうに注文をする兄を横目に彼は思うのでした。彼は大きな大会直前に怪我をしてしまいます。膝を数針縫う怪我です。彼は父に1時間ほど説教をされました。こんな時に何をしているんだと。彼はあの時、自分の心が凍っていくのを感じたと言います。

いつからから裕福ではなくなった彼の家は、お出かけすることも、外食に行くことも極端に減りました。クリスマスにもらったプレゼントは315円のガンダムのプラモデルでした。アニメでは毎回最初に倒される、敵の量産型で、灰色で1番弱いはずのそれは彼の宝物になりました。お金がなくて大変なのに、プレゼントを買ってくれるなんて。彼は嬉しくて仕方がありませんでした。その後に控える父と母の誕生日にお返しをしたいと考えました。彼は毎週のプールの度にもらえるお小遣い100円を貯めて、プールの近くにあるお洒落なコンビニ、そのショーケースに並ぶケーキを買うことにしました。父の好きなチョコケーキと、母の好きなモンブラン。とてもキラキラと輝いて見えました。1つ300円弱で合わせて600円程度でしょうか。父と母の誕生日のちょうど中間で買えるように、彼はお金を使わないように心がけていましたが、帰りのバスで兄や妹だけが美味しそうにアイスやお菓子を食べてるのを見て、何度かおやつを10円か20円分だけ買ってしまいました。そのせいで、予定より1週間遅くなってしまいましたが、プレゼントを持って帰った日の父と母は喜んでくれました。母と父が喜んでくれるのがとても嬉しかったのです。まだ幼く素直なころでした。心が凍る直前の出来事でした。父は毎日お酒を飲み、タバコを吸っていました。

さらに時は流れて、それから数年後。
たわしくんたちは、立派な思春期となり、妹は毎日のように父と喧嘩をしていました。父は妹を容赦なく殴ります。蹴ります。もうやめてあげてという母も巻き添えを食らうこともありました。
最初は、酔っ払いの父から妹へのくだらないいちゃもんから始まり、次第に暴力に発展していくのです。そうなると兄は2階の自室に篭ります。父には暴力で勝てる人はこの家に誰もいないのです。
たわしくんは、父に口出しをします。その理屈はおかしい、と。すると頭に血の登った父は彼の話を聞くわけでもなく、殴りかかってくるのでした。父は知っているのです。彼を言い負かせないことを。彼は知っているのです。そうすれば母と妹を父から守れることを。

さらに時が経ちました。
たわしくんは社会人になり、地元の田舎から考えると大都会で仕事をするようになりました。1年目は給料が少なく大変でしたが、毎日自炊をし、お弁当も作ってなんとか安定した生活をしていました。
2年目になると多少の余裕もでき、ボーナスの一部を仕送りするようになりました。毎年の母の日には百貨店の商品券を、父の日には靴下や下着を送るようになりました。
ある年の盆休みに彼は実家に帰省した時に気付きました。あらかじめ帰ることは伝えていました。この日に帰るよ、と。その年の盆休みは家族全員が家でテレビを見ているだけでした。たわしくんは思いました。自分はいてもいなくても変わらないんだと。

たわしくんは、もしかすると愛されずに育った子なのでしょうか。彼は先日、大好きだった彼女にそう言われたのです。
彼も彼女に散々酷いことを言った後でしたので、売り言葉に買い言葉でどんどんエスカレートしていきました。でもきっとあれは彼女が常日頃から感じていた彼へ対する想いで、その優しさから敢えて言わずに伏せていたことなのでしょう。彼にとっては1番言われたくないことだったのかも知れません。そこから先の会話は全く覚えていないようでした。
凍った心がさらに細かくサラサラと崩れていく感覚でしょうか。いずれにしても、彼は何かを失ってしまったようでした。

彼女との言い合いの原因は、たわしくんにあります。彼は女性に対してとても優柔不断なところがあります。それが引き起こしたさまざまな出来事が煮詰まり、爆発したのです。
なので、自業自得なのです。

彼は自らその道を選び、その結果を引き起こしたのです。

心は戻ってこない。
彼女はそう言っていました。
そう望んだはずなのに、どこかでそれでもなお、彼が彼女を庇ってくれる未来を夢見ていたのでしょう。なぜならたわしくんは彼女のことが好きだからです。好きだけどおかしな言動をするたわしくんに嫌気がさした彼女がしたことは、とても大きな波紋を呼びました。

たわしくんは焦りました。
彼女が第三者を巻き込んでいたのです。
双方が怒っています。彼は何が正解なのか分からないまま、元通りにしようと試みました。元あったものを元あった場所に。
彼女にそう伝えても、反応は思っていたものとかけ離れていました。彼女とは話になりませんでした。第三者の方も扱いが難しいものがありました。強行策で行く1歩手前まで来ていました。そうなると全員が不幸になります。彼は第三者に寄り添い収めてもらうよう説得し、向こうの提示する妥結案を受け入れて一旦は収まりました。

残った問題は彼女の心です。
本来なら第一に優先すべき事柄であったはずのそれを、焦ったたわしくんは無視してしまったのです。分かっているのです。彼女が本当に何の覚悟もなく、思い付きでこんなことしたわけではないことを。むしろ全てを壊すつもりで最初からそうしていたことも。だからあれだけ気持ちの悪い文章を送りどこまでも悪者になろうとしたのです。なぜなら、好きだから。

たわしくんも過去に一度、同じようなことをした経験があります。一線を越える勇気も理由もありませんでしたが、すべて終わればいいと思っていたことがあります。その時は彼女と同じ28歳だったと思います。好きな人と離れるくらいなら、という思いと、こうしないと離れられないからという2つの思いがありました。

その日、たわしくんは夜遅くまで彼女を罵倒したり慰めたりを繰り返しました。そのためか彼は次の日に起き上がることができませんでした。朝目が覚めても、身体が起き上がらないのです。でも彼は賢いので人間の反射の機能を利用します。ベットから転がり落ちることで立ち上がることに成功しました。そのまま職場へ電話をし、1日おやすみにしたようです。彼は泣いていました。酷いことをしたと。酷いことをさせてしまったと。でももう起こってしまったことです。無かったことにはできません。彼女はたわしくんとの関係を不可逆的に破壊しようとしたのです。彼がそうさせてしまったのです。

たわしくんは、決めました。
彼女が最後の最後に決めたことを尊重しようと。彼はとことんまでに彼女と同じように破壊しようと試みます。彼女からもらった大切な宝物たちをめちゃくちゃにしました。もう元通りにはなれないんだと自分に言い聞かせながら、特に胸が痛んだのは植物たちと、かわいい石たちでした。彼らは少なからずたわしくんを支えてくれました。彼女が彼の家に来なくなってから久しい今日までを、その存在で彼女を感じることができたのです。つい水をあげすぎてしまうので、我慢するのに大変苦労をしました。もうその必要もないんだねと、もはや何の感情かさえも分からない涙が作業を邪魔するのでした。

たわしくんはめちゃくちゃにしたものを、めちゃくちゃの状態で彼女の家の前に置きました。見た瞬間に大きなショックを受けるように。SNSでも彼女が1番言われたくないことを書きました。彼女が見ていることを知っていながら。泣きながらかかってきた電話には気怠そうに返事をしてすぐに切りました。ごめんねと何度も繰り返しながら、彼は全てをやり遂げたのです。

そこから彼と罪悪感との戦いが始まりました。必死に酷い言葉を探して、それをぶつけたこと。昨日、これまでの出来事。幸い今日の仕事は立て込んでいました。流れ作業のように、ボーッとしながらできることだったので、捗りました。

たわしくんは彼女に言いました。
釣り合ってない、と。
自分がしたことと、彼女がしたことが釣り合ってないという意味です。彼は1日中それを自問自答しました。付けた傷の深さをお金で測ることはできないけれど、それに対する誠意としてお金が意味を成すことはある。
彼が彼女に対してしたこと、それに対する誠意。釣り合ってない。どっちが?誰が?何が?

たわしくんは、気付きました。
もう本当に戻れないんだな、と。

淡い期待を抱いていました。
全てを元に戻したら、まだ可能性はあるのでは、と。

でも、戻れるはずがないのです。
戻ってはいけないのです。
たわしくんは、知っています。
なぜ悲しいのかを。
まだ彼女を好きだということを。

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