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1999年にわっぱの会*とOST-ORGANが上演した「話す演劇/離す演劇」についてわっぱの会の斎藤まこと*さんが書いた文章です。OST-ORGAN≀TEXT(2000年発行)に掲載されました。
「話す演劇/離す演劇」をめぐって 斎藤亮人(わっぱの会) 1・はじめに オスト・オルガンの人と演劇をやってみようと思った動機はどんなものだったのだろうかとあれこれ考えてみた。「共に」というのは誰と誰の、何と何の「共に」なのだろうかという問い。障害を持つ人と持たない人という二分法にこだわっている限り双方が風景の中に存在するということは成立し得ないのだろうかという問い。「障害者」という存在は一体何なのかという問い。障害を持つ人も持たない人も一緒だという言説への不快感。「障害
OST-ORGAN の上演作品「カミガタリ≀引く演劇」〔1998〕 と「話す演劇/離す演劇」〔1999〕 を註釈した文章です。2000年発行のOST-ORGAN≀TEXTに掲載したものです。
[discrete/n(亜)tion;platエアウ]という題で「カミガタリ≀引く演劇」〔1998〕「話す演劇/離す演劇」〔1999〕を註釈する 海上宏美 (私の隣にいる)私たちは[discrete/n(亜)tion; platエアウ]を傍聴-朗読しているのだが(古い集落では石を並べることを並数と呼んでいた)、数の外を並べることができないので(私の隣にいる)私たちは「curtainを引く」のだった。 OST-ORGANは1999年3月、わっぱの会の有志と「話す演劇/離す
1991年10月、OST-ORGANが5月に上演した『DIE HAMLETMASCHINE---ハムレットマシーンにおける受苦性の空虚に関する上演』を『ハムレットマシーンパラタクシス』と改題*して上演した際の、上演方法を述べた文章です。(1991年10月発表)
「ハムレットマシーンパラタクシス」の方法について 海上宏美 「ハムレットマシーンパラタクシス」は「ハムレットマシーン」を「クラップ最後のテープ」の方法で上演するということで構想された。それは「ぼくはハムレットだった」という冒頭の一文に尽きる。ミュラー解釈にベケットを用いているのではない。単にベケットの方法をそのままそっくり引用しているだけである。だからとくに内在的な解釈は必要としない。演劇にコンテクストがあるとするならばこうした方法はとられてよいはずである。 以下その具
1991年5月、ハイナー・ミュラー作『ハムレットマシーン』をOST-ORGANが上演した際に『DIE HAMLETMASCHINE---ハムレットマシーンにおける受苦性*の空虚に関する上演』と題した理由について述べた文章(1991年5月発表)
隣接と受苦性 海上宏美 「ハムレットマシーンは可能か」という問いには様々なバリエーションが含まれている。「ハムレットマシーンの上演は可能か」「ハムレットマシーンの解釈は可能か」「ハムレットマシーンの翻訳は可能か」「ハムレットマシーンから何かを引き出してくることは可能か」。これらの問いに通底していることを一言で換言すれば、テクストとしての「ハムレットマシーン」から、内在性に基づいてさらなる要素をあぶりだすことと言えるのではないか。次のステップとして「上演不可能性を前提としな