見出し画像

1991年10月、OST-ORGANが5月に上演した『DIE HAMLETMASCHINE---ハムレットマシーンにおける受苦性の空虚に関する上演』を『ハムレットマシーンパラタクシス』と改題*して上演した際の、上演方法を述べた文章です。(1991年10月発表)

「ハムレットマシーンパラタクシス」の方法について

海上宏美

「ハムレットマシーンパラタクシス」は「ハムレットマシーン」を「クラップ最後のテープ」の方法で上演するということで構想された。それは「ぼくはハムレットだった」という冒頭の一文に尽きる。ミュラー解釈にベケットを用いているのではない。単にベケットの方法をそのままそっくり引用しているだけである。だからとくに内在的な解釈は必要としない。演劇にコンテクストがあるとするならばこうした方法はとられてよいはずである。

以下その具体的な「ハムレットマシーンパラタクシス」の方法について述べてみる。

(1)上演テクストとしての録音音声

テクストを朗読し録音した録音音声を上演テクストとして用いる。そのためテクストがどのように書かれているかが重要となっている。テクストの意味内容や情緒を込めて、重々しくといった朗読の仕方、ともに問題にされていない。そのために複数の朗読の声を用いている。

では、ハムレットマシーンのテクストに使われている文字と言語はどのように配置されているのか。

原文テクストの大部分は独語で書かれているが、英語で書かれているセンテンスが数行ある。つまり二ヶ国語で書かれている。また原文テクストには四種類の文字が使われている。大文字ではじまる通常の文。大文字ではじまる斜体の文。大きな大文字だけの文。小さな大文字だけの単語。この四つである。大文字ではじまる通常の文が一番多い。その中に大きな大文字だけの文が挿入されている。英語の文の大半は大文字である。ハムレットやオフィーリアという語は小さな大文字で配役らしく書かれているところがあるので、それに続く文は台詞であることが窺える。大文字ではじまる斜体の文は下書きらしいものであることがわかる。オストオルガン発行のパンフレットでは日本語訳は活字の都合で二種類になっている。大文字ではじまる通常の文には明朝体が、大きな大文字の文には太いゴシック体が使われている。斜体の文は括弧に入れてあるのでト書らしいものであることはわかるようになっている。

以上の原文テクストと日本語訳テクストを朗読した録音音声に処理を加えたものを上演のテクストとしている。

では、処理の仕方はどうなっているのか

日本語訳の太いゴシック体の部分は電気処理でイフェクトがかけられている。二種類の文字が使われている日本語訳テクストを録音音声化して上演のテクストとして用いるのであるから、録音音声も二種類である必要からの処理である。対応する原文テクストの録音音声にも同様の処理が行われている。聴き取りにくくなっているのは単にその結果であり、意図されたものではない。日本語訳テクストの句読点、原文テクストのコンマとピリオド、「/」にはノイズ音声があてられている。頻繁に入っているノイズ音声がそれである。

録音音声の複数の声は最初の順番が任意に決められており、後はそのローテーションになっている。

このように処理された録音音声を上演のテクストとしているので、書かれた内容に対しては非─解読という方法=距離がとられていることになる。また録音音声は上演テクストという性格から前景化してはならないものとされている。

場面の数はテクストと同様に五つに分けられているが、テクストの各場面とは異なって単純に全行数が五等分されている。暗転に挟まれているのは第三の場面である。各場面は舞台上では明示されていない。

(2)舞台上の装置

上演に際して用いられている言語は原文テクストと日本語訳テクストを合わせて三ヶ国語である。それに対応する独語用、英語用、日本語用の三つのスピーカーがある。録音音声はそれぞれが別々に三つのスピーカーから出ている。さらにそれに対応するのが三つのテープレコーダーであるが、スピーカーとテープレコーダーとの直接的な対応関係は舞台上で示されていない。

スピーカーを背負う三人の俳優が歩いているのは、様々に解されるであろう敷居である。片方が空いている二脚ずつの椅子も同様の事態に晒されている。敷居、二脚ずつの椅子、そして影絵には引用先があることをつけ加えておく。

(3)

三台のテープレコーダーを操作するのに三人の俳優が、そして三つのスピーカーにも三人の俳優が配される。テープレコーダーを操作する俳優の基本的な身振りは、テープレコーダー操作に由来をもつものとテクストとしての録音音声から引き出したものの二つである。口振りは指定された日本語と独語の録音音声を真似るということで引き出されているが、まったく恣意的に選ばれた他の文の口振りも密かに挿入されていることも言っておかなければならないだろう。スピーカーを背負う三人の俳優は敷居の上を往来するが、この往来は途切れている敷居に由来する。

通常、俳優の身振りと口振りと音声は分けられていないが、ここではそれらを引き裂き分断することが企図されている。そしてそれぞれを舞台上に位置づけている。この位置づけに根拠があるとすれば上演テクスト=録音音声と舞台上の装置に由来するものとしてすべて舞台上に晒されているものとされている。

片方が空いている椅子の上にスピーカーが載せられるのはこの位置づけである。距離のない音声と口振りに距離がとられ舞台上に位置が与えられている。その与えられた位置が身振り口振りの動作を行う俳優の隣の椅子の上ということになる。影絵の存在はこうした身振りと音声の関係のまさに変奏である。

(4)

この作品では舞台上の俳優の表情の由来について触れられているとは言えないが、表=表面を強調していることは確かである。ここでは舞台上の俳優の表情は未だ方法という水面に浮上していないと言うべきだろうか。

*

*「改題」した理由は、この上演が扱うべき、あるいは扱っている事柄が「受苦」といった思想内容ではなく、「隣接」「パラタクシス」といった「形式」や「方法」だということに思い至ったからです。「受苦」はマルクスやミュラーのテクストの持つ「内容」や成立した社会背景に対する演出家である/あった私のテクストに対する内在的な解釈なのに迂闊にも題名に付けてしまったものなので不要だと考えたわけです。「ハムレットマシーン」のこの上演の方法は、テクストの内在的解釈によるのではなく、テクストの外から外在的な「隣接」「パラタクシス」なのだと明確に示す必要があると思い「改題」しました。(2023.2.27海上宏美記)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?