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1991年5月、ハイナー・ミュラー作『ハムレットマシーン』をOST-ORGANが上演した際に『DIE HAMLETMASCHINE---ハムレットマシーンにおける受苦性*の空虚に関する上演』と題した理由について述べた文章(1991年5月発表)

隣接と受苦性

海上宏美

「ハムレットマシーンは可能か」という問いには様々なバリエーションが含まれている。「ハムレットマシーンの上演は可能か」「ハムレットマシーンの解釈は可能か」「ハムレットマシーンの翻訳は可能か」「ハムレットマシーンから何かを引き出してくることは可能か」。これらの問いに通底していることを一言で換言すれば、テクストとしての「ハムレットマシーン」から、内在性に基づいてさらなる要素をあぶりだすことと言えるのではないか。次のステップとして「上演不可能性を前提としながら、“上演” されることを希求する、上演=翻訳しなければ意味のないテクスト」が用意されている。ここではまず上演不可能性とは何かということが問われてくるのだが、これには文脈がある。その文脈とはありていに言えば大文字の演劇史のことであり、上演とは解釈的再現のことだととりあえずいまは言っておこう。この文脈が衰弱し先細りしているのは既知のことである。だとすれば上演不可能性とは、さらに衰弱し先細りをせよという一点でのみ了解されるべきことであり、その衰弱の先細りの先にあるものをこそ思考すべきなのではないか。

しかし翻って、テクスト=無意識と仮定している場合、全てのテクストはそもそも解釈的再現=内在的解釈、つまりここで言ういわゆる“上演”の不可能性を前提にしているのではないか。解釈的再現を内在的解釈と言ってもいいし、どう解釈してもいいということと言ってもいい。ここに至ってはテクストは上演可能だと言うほかはない。いやむしろそう言うべきである。それにもかかわらず”上演”されることを希求するテクストとはいったい何か。さらなる要素が「ハムレットマシーン」というテクストには内在されているということなのか。

テクストを内在的に解釈し、そこから可能性/不可能性をめぐって導き出されることがらはあまりにメタフォリカルであるように思われる。メタファーによる逸脱は枠の拡大だけをもたらすのではないだろうか。内在的な解釈による規範の拡大。それは許されることがまた一つ増えたということにすぎず、その規範のうちではなんでもありということになる。それはインデックスの無限増殖性であり、これを機械と呼ぶことさえできるだろう。

こうした事態に抗するために、ではどうすればいいのか。内在するものではなく、その外側に隣接するものを対置/並置しなければならないという方法が考えられていい。端的に言えば、テクストを解釈せず隣接という方法でテクストをテクストたらしめるということ。もう少し違う側面から言えば、テクストを内在的に解釈することで、演劇のハードウェアを更新することができるのか、という問いをたてることを急ぐべきであり、素早く答えを出すべきであるということ。素材としてのテクスト、という以前にまずこのことが問われなければならない。

一方、受苦性とはきわめて古典的な言葉である。しかしこの言葉はもはや何も説明したりしないのだろうか。また空虚はあまりにも馴染みあるものとなり、いまさら使われても気恥ずかしいぐらいで既に過去のものとなってしまったのだろうか。敢えて言うならこうした言葉を隣接という言葉に隣接させておく必要を感じているのである。
受苦性の空虚という言葉の決着として伝統が言いたいわけではないことは言っておくべきであろう。また新たに概念化し展開させていこうとしているわけでもない。隣接という言葉についても同様に概念化して展開させていこうとしているわけではない、ということが言いたいだけである。

空虚の隠蔽装置とは空虚の充填装置に他ならない。もし演劇がそのように機能しているならばどうすればいいのか。もちろんこれは演劇に限ったことではない。だがこの事態に対応することを演劇に限ったらどうなるのか。というよりも演劇におけるそうした限り方だけが演劇の思考と呼べるのではないのか。
空虚とは受苦的な在りようが空虚であるということなのではないかと考えてみる。「意識ではどうしても解決できないものによって不可避的に人間の行動が制約されている」こと。これを受苦性と呼ぶならば、受苦性の消失が空虚として現れると仮定できる。

空虚=中心の不在とは、中心─周辺の図式でいうところの周辺にあたる。周辺を周辺たらしめている中心が不在なのだから、中心もまた周辺となる。中心が中心であることを表すことができない。周辺もしかり。誰も何も表したり証明したりできない。ここではある要素がもう一つの別の要素を表したりしないのである。もはや内在的な能動性はあらゆる関係と無縁となる。
こうした圏域は存在する。この圏域から動いて遠ざかること、動いて回避することが重要になる。動かなければそもそも問いは生じない。そのためにもこうした圏域を浮上させることが要請されてくる。

受苦という言葉が旧東ドイツという国家を生成した思想に装填されていたことを想起しないわけにはいかない。受苦からは動くこと(またしても!)しか出てこない。待つことや動かないことは出てこない。受苦的事態を変えるためには「意識ではどうしても解決できない」のだから動くしかないのである。そして旧東ドイツの人々は動いただけなのであろう。受苦性が空虚となったときに待つことや動かないことが出てくるのではないか。だとすれば「ハムレットマシーン」は動く前の誰も証明できない、ある一つの要素だったのではないか、と言うこともできるのではないだろうか。

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*「受苦性」とはカール・マルクスの『経済学・哲学草稿』の「人間が受苦的存在であること」を述べた文章からの引用である。この受苦的あり方が1989年までに、東ドイツでも日本でも空虚になっていた=忘れ去られていたとすればどうだろうか、ということをわかりにくい表現で書いている。マルクスの言う受苦的あり方を我々が忘れてしまっているならば、動いて、つまり上演して空虚から遠ざかるべきであると述べている。(2023.2.25海上宏美記)

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