2つめの絶対演劇第2宣言~絶対演劇第1宣言から剥離された切片(1992年3月発表)        

2つめの絶対演劇第2宣言~絶対演劇第1宣言から剥離された切片

海上宏美

(1)

絶対演劇は〈演劇は演劇である〉という同語反復を肯定する。そこには目新しさは何もない。ある演劇の同一性を前提に〈演劇は演劇である〉と言われる事態がある。絶対演劇はこの事態ではなく〈演劇は演劇である〉という同語反復そのものに注目する。ここでは絶対演劇は同語-反復やその由来である断絶の絶対性に隣接する。〈演劇は演劇である〉という同語反復がある奇妙さをともなっているとすれば、それは演劇という意味の同一性が前提されているはずなのに、繰り返されることで前提が揺らいでいるからであろう。それは〈演劇は演劇である〉という同語反復が同一であるところの内容について何も言っていないことからきている。つまり同一 性を前提にしている演劇が空洞化しているという事態を示している。そうした事態は空虚であるとされるが、絶対演劇はこれを顕在化させることはあっても前景化することはない。
さらに絶対演劇は同一性を前提にして〈演劇は演劇である〉といわれるその〈 〉の中に演劇という語が2つあることに注目する。つまり〈演劇は演劇である〉という同語反復の肯定ばかりではなく"2"であることへと断絶=隣接する。同一性が垂直軸でのメタフォリカルな〈意味〉の問題系だとすれば、絶対演劇ではそれを水平軸でのメトニミックな〈距離〉〈数〉の問題系として明示する。絶対演劇は〈演劇は演劇である〉という同語反復を文字通り二度の演劇として了解する。

表情=顔の表面が一人として同じではないという事実は、主観像と客観像が決して折り合わない、折り合うものではないということを示している、と了解されるべきである。表情=顔の表面が主観と客観という矛盾をはらみながら同一性へと統一されていると了解すべきなのではなく、そうしたことはまったくなされていないのだと了解されるべきだということである。表情=顔の表面は同一性や統一とは絶縁=絶演しており、そうであるがゆえに同じ表情がないのである。そうであるがゆえに表情=顔の表面はつねに歪んでいるし、揺らいでいるのである。そして同じ顔は同一性と絶縁=絶演していないために闘わなければならなくなる。こうしたことは顔の表面に空虚はないということを示唆している。にもかかわらずその顔を離れた空虚さが複数の顔から見て取れるとすれば、それはもはや見ることの問題に属していると言わなければならない。これが〈見ることの変更〉という絶対演劇の問いの圏域である。
また表情=顔の表面の主観像と客観像は隣接しているのだ、ということができる。これは声についても同様のことがいえるだろう。話す私と聴く私は隣接しているのだ、と。つまり話す私と聴く私が隣接しているということは、話す私と聴く私は超越的なるもの第三者的なるものを経ていないということであり、連接も循環もしていないということである。それが"2"である。隣接が“2”なのである。

絶対演劇は物と形・個物と一般という絶対的な矛盾をはらみながら自己同一性へと弁証法的に統一する(される)可能域から剥離し、絶縁=絶演する。

(2)

絶対演劇とは演劇における形式をめぐる思考である。この形式そのものは上演で位置づけることはできない。この形式に隣接するためには、この形式以外の演劇の諸要素を上演で位置づけなければならない。
演劇の上演が再現するとされているのは上演の外部にある様々な相関するモデルである。ここから上演の外部に相関するモデルを持たない上演もまた当然考えられる。再現ではないとされる演劇の上演である。それを演劇の自立している上演ということができるだろう。だからそれはもはや演劇の自立している上演ではなくて、"演劇の”が無くなった“自立している上演"なのである。だがその自立している上演は何も再現していないのか。あるいは何も反復していないのか。そこで発せられる声はどこからくるのか。身振りはどこからくるのか。こうした問いに自立している上演は答えていない。俳優(=俳優でない)であり人間であるからで、関係であり生成であるということならば、それは上演の外部に相関するモデルを求めることができることは明瞭である。

絶対演劇の上演は再現である。では絶対演劇の上演は何を再現するのか。再現を切り詰めて考えれば、再現するものと再現されるものの2つであると言うことができる。上演が再現するものであれば、再現されるものは何か。それは絶対演劇の上演に対しては必ず先だってあるものである。それは〈意味〉や〈形式〉や〈名〉と言われるものであり、絶対演劇はそれを〈上演の形式〉と仮称する。絶対演劇が再現するのはこの〈上演の形式〉である。
絶対演劇はこの必ず先だってあるものを否定したり変更したりしない。だが演劇ではなく絶対演劇というわけである。演劇に絶対を前置する(=冗語する)ことでそこに線を引くのである。あるいはこう言ってもいい。線を引くこと=上演で、先だってあるものとの断絶を瞬視するのだと。引かれた線が断絶の線なのではない。線を引くというそのことが断絶の瞬視だということである。
このことをもう少し違った角度から補足しておこう。先だってあるものとの同一性は、同じでないとは言えない、という否定的な理由のみで支えられている。つまり同じなのではなく、同じでないとは言えないだけなのである。絶対演劇もまた先だってあるものを否定したり変更したりしないのだから、演劇と同じでないとは言えない、という性格を有している。

線を引くことの極小は空間・平面(=場所)を2つに分割することであり、その2つは隣接している。そこは私が私として現れる場所であり、そこでは(話す)私と(聴く)私は隣接している。線を引くこと=文字を書くことも、意味は意味でないものに隣接している。絶対演劇とはこの隣接の切片であり瞬視である。

絶対演劇は〈上演の形式〉を再現するが、それだけでは十分ではない。〈上演の形式〉以外に再現されるべき上演の外部の相関するモデルを持つ必要はない。これは相関していても相関していなくてもいいことである。だが上演の諸要素になるそれらの声や身振りの由来が上演の内部で位置づけられなければならない。それはその上演固有の、その上演限りでの理由でしかありえない。この位置づけがなされるということは、どのようなテクストが引用されてもいいのだということを当然ながら含意している。演劇=演劇史からの引用はもはやここでは問題とならない。

(3)

演劇における形式を扱えばそれは絶対演劇となるといっていいが、演劇の演劇というふうに演劇の上に更にもう一つの演劇を重ねていくメタシアターとはまったく異なる。メタシアターの自意識は演劇の終焉である。メタシアターの眼前には演劇の終焉という光景が拡がっている。メタシアターが肯定するのはそうした光景である。そこから演劇についての演劇がはじまり、また、ある社会を越境しグローバルな拡がりを志向する演劇も登場する。絶対演劇はこうした演劇の終焉という自意識を持たない。
ある社会を越境していこうとする間文化主義=インター・カルチュラリズムは消費文明の別名である。それはインターナショナリズム崩壊後、現状追認的に言い換えただけであり、ワールド・ミュージックの登場とも相即している。そうしたポピュラー・ミュージックを例にとるまでもなく、そこではいつも政治の象徴劇が再現される。インター・カルチュラリズムを受容するカルチャーはサブ・カルチャーである。絶対演劇は間文化主義、サブ・カルチャー、そしてそのまた別名である世界演劇とも絶縁=絶演する。
これらに対して〈演劇は演劇である〉という同語反復を対置しても位相が異なっているとしか了解されえない。絶対演劇はこれらに対しては 〈演劇はメイン・カルチャーである〉という仮説を対置する。仮説であるということは、演劇が長い演劇史を抱え込んでおり、膨大な記憶の集蔵庫であるというような自明性を持たないということである。むしろここで言われなければならないことは、連接・連関・連続を信じてきた演劇史を常に問い返すという作業そのものが〈演劇はメイン・カルチャーである〉という仮説の内実であるということである。一方で何か決定的なものから紐帯が切れている=演劇の終焉という自意識があり、また一方では演劇=演劇史の連接・連関・連続を疑うことがないならば、それは矛盾に満ちた身振りである。こうした事態に対して仮説を対置することができなければサブ・カルチャーに浸るしかない。
仮説とは問いであり、たてられた時点では問いの共有はローカルにしかなされない。そもそも仮説をたてること自体が私的な事である。そうであるがゆえに絶対演劇の上演には私的な演劇という性格が色濃く立ちこめるだろう。私的な演劇というのは演劇=演劇史から断絶しているということも含意することになる。
仮説自体の私事性とメイン・カルチャーであるという対置された仮説もまた矛盾しているように見えるが、それは統一されずに上演と討議として並置される。仮説自体の私事性は上演として、またメイン・カルチャーという仮説は討議としてである。討議では演劇=演劇史は何を問題にしてきたのかということではなく、何を問題にしてこなかったのかが問われ、問題にしてこなかったものこそテーマとして摘出される。ここで並置されている上演と討議の2つは、演劇における物と名であるといっていい。つまり〈演劇(という物)は演劇(という名)である〉。

(4)

こうして絶対演劇は演劇となる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?