見出し画像

OST-ORGAN の上演作品「カミガタリ≀引く演劇」〔1998〕 と「話す演劇/離す演劇」〔1999〕 を註釈した文章です。2000年発行のOST-ORGAN≀TEXTに掲載したものです。

[discrete/n(亜)tion;platエアウ]という題で「カミガタリ≀引く演劇」〔1998〕「話す演劇/離す演劇」〔1999〕を註釈する

海上宏美

(私の隣にいる)私たちは[discrete/n(亜)tion; platエアウ]を傍聴-朗読しているのだが(古い集落では石を並べることを並数と呼んでいた)、数の外を並べることができないので(私の隣にいる)私たちは「curtainを引く」のだった。

OST-ORGANは1999年3月、わっぱの会の有志と「話す演劇/離す演劇」を上演した。わっぱの会の活動の基本は「施設ではなく地域の中で障害をもつ人ももたない人も共に生活 し働く場所をつくり出すことで差別のない、共に生きる社会を創り出そうというところ」にあると上演のチラシに記されている。「共に生きる」ということ。これは「共生」ということであるが、わっぱの会の斎藤亮人は周囲の知人たちから「共生=共に生きる」という言葉はもう使わないほうがいい、としばしばいわれるという。周りの知人たちは「共生=共に生きる」という言葉が手垢にまみれ空疎になっており、人々に訴える力がないのでそのようにいうのだろう。だが、斎藤亮人はそうした周囲の人々のいうことも理解できないわけではないが、やはり手放すことはしないともいう。
韓国で投獄された徐勝と徐俊植という二人の兄を持つ徐京植は「植民地支配を受けた私たち在日朝鮮人は、戦後日本のなかで差別を受け排除されると同時に、戦後日本の民主主義から平等や人権など、さまざまな民主主義的価値を教えられた。それを教える人と私たちを排除する人が、同じ一人の個人の場合すらあるという経験を私たちはしてきたわけです。」〔「図書新聞」2450号〕と述べ、戦後の民主主義の虚妄を骨身にしみて知っているとしたあとで、「その虚妄性を知っていても、戦後日本の民主主義が理念として内包していた平等や人権など、人間であるということの普遍的価値は捨てるわけにはいかない。」〔同〕という。また、「踏みつけられた側が踏みつけられたことによって、踏みつける人間をも含む普遍性の枠組みを立て直すという役割を負わされるという関係です。」〔「世界」1999.10月号〕とも語る。
斎藤亮人が「共生=共に生きる」という言葉を手放さないのも、徐京植が語っていることとほぼ同じ理由によると私には思われる。
一方で、「聴く演劇」〔1996〕において、シベリア抑留を経験した詩人石原吉郎の「ある<共生>の経験から」という文章の全文を上演で引用した。その文章で石原は「人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感」「こそが、人間を共存させる強い紐帯である」と述べている。「聴く演劇」においては、この石原吉郎の「共生」を「横並び」と誤読することで、(私の隣にいる)私たちは字義通り俳優が「横並び」に並ぶ演劇を上演した。この上演を経ることで「共生」という言葉の参照が可能となっていたといっていいだろう。そして、OST-ORGANを幾度か見ていた斎藤亮人による上演の誘いがあった。
「共生=共に生きる」ことから排除されていることによって、排除する「人間をも含む普遍性の枠組みを立て直す役割を負わされるという関係」の中で、おそらく(私の隣にいる)私たちは誘い呼び声を聴いたのではないだろうか。(私の隣にいる)私たちは一般的な意味での表象=代弁=演技などしないのだし、聴くこと以外にできることは多くない。しかし、聴くことはできる。聴くこと。聴くために耳を傾けること。聴く演劇。そしてそのためには話しているもののそばにいなければならなかった。

アメリカのパフォーミング・アーツに詳しい演劇批評家の内野儀は「徹底化したポストモダン状況において、演劇を含む芸術実践にできること」は「生きられた世界を記述すること」であり、それは「政治的なプロジェクトでしかありえない」として、「記述する主体としての実践家の政治的立場性が、あらゆる上演や書くことにおいて、当然のごとく、問われるのであるし、そういう立場性に無自覚であるかぎり、世界を記述することなどできるはずもないのである。政治的立場性という日本語が強すぎるというのであれば、主体位置と言いかえてもよい。」〔「新しい戯曲の言葉は必要か?」早稲田文学1999.5月号〕と述べている。内野儀のこの言説は、基本的にはアメリカの90年代のフェミニズム・パフォーマンスやクイア・パフォーマンスを参照しつつなされていると思われる。ゲイ、フェミニズム、クイアというその存在の在り方が存在様式として、90年代のアメリカ社会において不可避的に直接的な政治性を持つのであろうが、そうしたアメリカの文脈を差し引いたとしても、やはり充分な問題提起になっている。内野も気にかけているように確かにこの国では「政治的立場性」という語は強すぎると受け取られるかもしれない。かつてのような「芸術と政治」の二分法の図式をまたもや演劇や芸術に持ち込む言説だと理解されてしまう可能性がある。だが、内野が述べていることは二分法を持ち込むこととは違うと思う。
内野の述べていることを私なりに言い換えてみると、「表現行為は透明な存在によって行われるはずはない。現在、生きられているのだから、社会や世界や歴史に外在するのではなく内在しているはずである。外部性などというのは格好が良すぎるし、それはどこにもいないというメッセージを発していることと同義だ。世界に内在しているのだから、どこにもいないなどということはありえない。では、どこにいるのか。たとえ演劇においても、ここだとはいわないまでも、誰の隣にいるのか、誰のそばに寄り添っているのか、ということに無自覚ではいられないはずだ。」と言っているように思われる。
一方で、こうしたことが「本当」に可能なのは「現実界=破れ目」においてだという言語構造主義的な説明もあるだろう。確かに私たちは母語という言語の外にでることができないし、「現実界=破れ目」を生成する無意識なるものは母語という言語能力として構造化されているといえなくはない。しかし、その分析=説明も言語でなされるのであるし、第三の審級は二分法から生じるとするならば真偽も不明にならざるをえない。つまり、「現実界=破れ目」とは事態の一つの説明の仕方であるほかなく、当然別の説明の仕方もあると考えなければならなくなる。説明より「前」にすでに生きられていることをことさら強調する必要などは全くないが、その生きられていることにおいて「記述する主体としての実践家の政治的立場性」が問われていることは芸術史の上でも確認されるべきことである。つまり、20世紀に獲得された「芸術/政治」「芸術/社会」という二分法を前提にした芸術の政治・社会からの「自立/自律」という枠組みでの思考自体が構造を構造たらしめるていると考えられるのだから、「自立/自律」を前提にした思考や上演は、常に強迫的に「遅れている」という観念を持ってしまうことにもなりかねず、だからこそ、現実を模倣するかのような演技に対して現実からの「遅れ」が指摘されたり畏怖されたりもするし、「遅れ」ないようにする方策が取られたりもする。これは言語構造主義的にいえばまさに構造の「徴候」である。
(誘い呼び声が聴こえている。それを聴くこと。寄り添うこと。ここから遠ざかることは外部であろうとすることであるが、外部であろうとする根拠は自己にはない。根拠が自己にあるのならば、それは芸術である必要はないからだ。根拠は自己にはないにもかかわらず上演するならば、上演を上演につなぎ止める上演芸術そのものは依代であるほかはなく、「私は芸術家である」「これは芸術である」というメタ・メッセージを発する超越的なるものとなる。このメタ・メッセージもまた「徴候」であることはいうまでもない。)
こうした思考だけで演劇の上演ができるわけではない。上演のための仕組みが必要となる。
上演を演劇=演劇史の外部性=単独性として徴づけるのではなく、演劇=演劇史に寄り添わせること(つまり、当たり前の演劇ということだ。なぜなら上演=上演史に外部などないのだから)。上演を演劇=演劇史の外部性=単独性として徴づけることは、同時に、劇場をも含む社会的な状況や構造を再現することに対する批判を意味する。構造批判、構造の再現批判である。この批判という位置に留まるのではなく、ここから折り拡げること。それゆえ、劇場をも含む社会的な状況や構造を再現するのではなく、非-構造であること(つまり、当たり前の事態ということだ。なぜなら構造は言語という内在性を担保するように見えながら外在的視線による事態のある一つの説明なのだから)。「現実界=破れ目」の露呈などではなく、単に数を数えること(つまり、当たり前の事態ということだ。なぜなら「特異点=現実界」は構造的説明なのだから)。こうして、(私の隣にいる)私たちは「curtainを引く」のである。
上演のための仕組み。それは「curtainを引く」ことであった。「カミガタリ≀引く演劇」と「話す演劇/離す演劇」で(私の隣にいる)私たちはcurtainを引いたのだった。
「カミガタリ≀引く演劇」「話す演劇/離す演劇」ともに、劇場全体(舞台ではない)が4枚のcurtainでほぼ十字に仕切られている。4枚のcurtainのうちの2枚は舞台と客席を二分する。残りの2枚のうち1枚は舞台を二分し、もう1枚は客席を二分する。4枚のcurtainの開閉パターンは2の4乗、2×2×2×2=16通りある。この16通りを順次上演の時系列に従って並べていくのだが、その並べ方は、16の階乗16!=20,922,789,888,000、つまり約20兆通りある。約20兆通りあるのは、概念としては理解できる。しかし、私たちには実際に20兆通り並べてみることができない。20兆通りを上演することができない。つまり、事実としては理解することはできない。理解できるとする立場は言語構造主義的立場である。理解するためには、破れ目としての外部を発見しなければならない。しかし、「歴史」に外部はない。だから、まず、思いつく一つ目から数え始めるしかなくなる。
約20兆通りある。では、思いつく最初は何か。思いつく最初は最適解である。4枚のカーテンの16通りの開閉パターンには、約20兆通りの並べ方があるのだから、一つ一つのパターンにおけるcurtainの開閉回数には偏差がある。その偏差のなかでもっとも頻繁に出現する回数の値がある。それが最適解である。「カミガタリ≀引く演劇」における「curtainを引く」=curtainの開閉はその約20兆通りの中のほぼ最適解に値するであろう数値を用いている。
「話す演劇/離す演劇」でのcurtainの開閉は、特異なパターン=特異解が用いられている。いくつかの条件が設定されており、その条件に見合う開閉パターンが用いられている。複数の条件があるのだが、例えば、その条件の一つを具体的にいえば、観客席を二分するcurtainの開閉は、閉めたら次の開閉パターンにおいては開けられることが条件となっている。これも約20兆分の中の1通りである。
「カミガタリ≀引く演劇」「話す演劇/離す演劇」において、この開閉パターンは折り返されている。「話す演劇/離す演劇」では、仮に前半の開閉をAとすると、後半の折り返しの開閉はAinverse(Aの逆)となっている。「カミガタリ≀引く演劇」(4時間半の上演)の開閉パターンは、A、Ainverse、A'、Ainverse+Aintroductionである。
こうしたcurtainの開閉パターンは、演劇を上演する動機とは何の関係もない。非構造主義的なdiscrete=離散数学の思考から導き出されたものである。演劇的意図、芸術的意図、視覚的意図が存在しない。そうした意図がないので、意図をよすがに全体を見渡すことができない。だから、ただ僅かながら知っていることから、つまり、20兆分の1を、2、3をまずは並べることを始めるしかない。つまり、数えられることのできる一つ目から数えあげるほかはないのである。
curtainの開閉パターンを演劇的意図で構成したのであれば、そこには反-構造主義的という迷彩が色濃く立ちこめるだろし、政治的立場性と演劇を意図的に切り離す、あるいは反対に政治的立場性を意図的に盛り込むという「徴候」が現れるだろう。だから、(私の隣にいる)私たちはcurtainを引いたのだ。
以上のことは、上演の進行を担当した私の理解であり、基本概念の構想と設定はむささび猫(ニャンコ)によってなされている。

「カミガタリ≀引く演劇」「話す演劇/離す演劇」のOST-RGANのテクストについても記しておかなければならない。「カミガタリ≀引く演劇」「話す演劇/離す演劇」の前作「聴く演劇」〔1996-1997〕はベケットに対する批判として(私の隣にいる)私たちが経験したことを私が記述するという方法をとっている。「分かれて二になる~聴く演劇2」〔1997〕も同様の方法である。具体的には「分かれて二になる〜聴く演劇2」では「聴く演劇」の上演自体を記述している。誰かが座っていたとか、イヤホンで声を聴いているといったことが非人称的に述べられている。
「カミガタリ≀引く演劇」と「話す演劇/離す演劇」においては、OST-ORGANのテクストは(私の隣にいる)私たちの語った言葉をテクストとしている。「カミガタリ≀引く演劇」におけるテクストの内容は台北のあるホステルでの噂話についての噂話であり、「話す演劇/離す演劇」におけるそれは社会福祉用語についての噂話であった。長々とだらだらと噂話をして録音し、それをテープを聴きながら書き起こし、書かれた文字としてのテクストとする。作者=テクスト作成者は(私の隣にいる)私たちであるが、各人が自分の言葉を台詞として語ることはなく、他の俳優の言葉を各俳優は語る。
(私の隣にいる)私たちは台詞を覚えない。常にテープに録音した台詞をイヤホンで聴きながら同時に発話するという「台詞術」を用いている。台詞を内面的・内在的に解釈しないためともいえるが、台詞を記憶するという内面的・内在的解釈は必然的に「遅れ」を孕むように思われる。練習を積み重ね台詞を頭=身体に入れ、「遅れ」をなくしたようにみせる仕組みには懐疑的である。ブレヒト=シェクナー的に言えば、リハーサルのプロセスを持ち込んでいるとも言えるし、「再現すること」「二度やること」「何度もやること」の理由の内在的側面を問わないとも言える。
テープから音声が流れる。それを聴く。そして、発話する。これは本を読んで朗読すること=発話すること同じように見えるが、決定的に異なる点を持つのではないか。朗読するためには、書記を理解していることが前提となるが、聴くことにおいては必ずしもそうではない。書かれたテクストは俳優によって読まれるだろう。しかし、音声テクストはそうではない可能性を有している。だが、どのような事態にそうではない可能性がありうるのだろうか。
台詞を覚えることは内在的契機を領域化する。「戯曲と上演という装置」は台詞を覚えるという機制=「仮構現実」として存在している。この機制に従う限り、内面を持つ主体性は受動的=従属的に問われるという形になり、受動的=従属的主体性が立ち現れると考えてみたい。台詞を単に聴くということにおいては、内在的契機は領域化せず、内面を持つ主体性という領域も生成しないと仮定することができる。とすれば能動的主体性だけとなるが、この能動的主体性も無効化する。なぜなら、この主体性は、受動/能動、支配/従属という二分法にもとづくものではなく、ただ、話し(=聴く)、そばにいる(=寄り添う)という在り方をしているだけだからだ。これを無理矢理言えば「主体位置」と言えるだろう。

curtainの開閉パターン


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?