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ポーランド孤児

ポーランド孤児問題。ウクライナ戦争のおかげで、風化しつつあった話題が再燃しております。
このポーランド孤児問題は、ロシアの侵攻が主要因です。亡国という言葉は聞き慣れませんが、ある一時期、ポーランドは国を失うのです。ロシアにとって不都合な危険思想を抱く者をシベリアへ強制収容し、または難民となって極寒の地を彷徨う者もいた。ポーランドの人権問題は大きなテーマで、世界の誰も無視できない有様でありながらも、積極的な支援に動く国はなかったのです。1919年、ウラジオストックのポーランド系住民が同胞の窮乏を訴える〈ポーランド救済委員会〉を設立。難民全体の救済を考えていたが規模が大きすぎ
「せめて子供だけでも」
という願いのもと、孤児救済に絞った活動を行うのです。先ず、アメリカ移民社会を経由しポーランドに送り届ける計画が立てられたが、肝心のアメリカが全く動きませんでした。ここではじめて、日本への救済依頼を求めたのです。ポーランド救済委員会委員長アンナ・ビエルケヴィッチ女史の来日より17日目、異例の早さで、日本はこの救済を決断しました。間もなく極寒の季節、一刻の猶予もない。日本で孤児を保護し、然るべきのちにアメリカのポーランド移民団体へ託すこととなったのです。

このときの状況は著書「聖女の道標」にも含んだが、世界でこの悲劇に応えた国は日本だけでした。このことは、奥ゆかしさを美徳とする日本国民とはいえ、やはり事実として後世に伝えなければいけないことです。作中は小説ゆえ、主人公から逸脱しないよう脚色を含みますが、当時の「迎える側」の空気を描いたつもりです。
すぐに日本へ救済を求めなかったポーランド救済委員会にも、理由はありました。1643年(寛永20年)、イエズス会のポーランド人神父が日本へ密入国したため、禁教と国禁を犯したことで磔刑にされます。そのため日本を蛮国と見做していたのです。しかし、背に腹変えられず、最後の最後で日本を頼った理由が、それでした。一縷の望みが成就したことを、一番驚いたのは、当のポーランド救済委員会かも知れません。
渋谷の福田会育児院に収容された孤児は375名、付添いの大人が33名。これが第一陣でした。大阪市立公立病院監獄寄宿舎に収容された孤児は390名、付添い39名。これが第二陣です。すべての命を救うことができなくとも、世界で唯一、日本だけが成しえた偉業なのです。
よくトルコやポーランドは、親日の国だといいます。かの国は、日本からの〈恩〉を、世代を超えて素直に感謝しているのです。だから親しみ敬うのです。大事なことなのに、日本国民はこの事実も理由も知らない。知らないから、つい非礼なことをしてしまう事もある。本来するべき道徳教育は、先達が残してくれた、こういうところを語り伝え、未来につなげる公徳を学ぶことではないでしょうか。
ポーランドが先の大戦時に親日という手を差し伸べた事例を紹介して、この蘊蓄の締めくくりとしましょう。
1945年(昭和20年)2月、ポーランド参謀本部情報部長よりストックホルム駐在武官・小野寺信少将に情報提供がされました。そこには、不可侵条約(日ソ中立条約)を反故にして日本侵攻を密約した〈ヤルタ会談〉の事実が記されていたのです。そこにはソビエト参戦が3月と明記されていた、いかに重要な機密提供であったか。ポーランドは連合国側に立場を置きながらも、日本への恩を忘れなかった。どうか期限までに対策して欲しいという、精一杯の好意だと思います。
残念ながら、日本はこの友情を生かすことが出来なかった。半年後、ソビエトの参戦を許し、人命も土地も奪われたのです。
正直なところ、自分自身がポーランドの何を知っているのと問われても、明るくないことばかりです。次世代に何を伝えていくか、おぼつかぬ伝道くらいしか出来そうにありませんが、そうやって日本とポーランドの友好をつないでいけたら幸いです。
 
2022年暮れ、ポーランドと日本をつなぐ使命を果たすピアニスト・栗原美穂氏と対談する機会がございました。

久しぶりに、昨日、ポーランドから栗原さんのメールをいただいて嬉しかったです。

ウクライナ戦争という身近な戦火にあって、政治と信条の間で、ポーランドも苦しい立場だと思います。
日本が同情と博愛の心を忘れたら、いけないと感じる次第です。
 

この話題は「歴史研究」寄稿の一部であるが、採用されていないので、ここで拾い上げた。戎光祥社に変わってからは年に一度の掲載があるかないかになってしまったので、いよいよ未掲載文が溜まる一方。
勿体ないから、小出しでnoteに使おう。
暫くはネタに困らないな。
「歴史研究」は、もう別のものになってしまったから。