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妻籠宿からみえてくる何か

クリック⇒ 妻籠宿公式ウェブサイト

妻籠宿は中山道42番目の宿場で、現在は長野県木曽郡南木曽町に属す。NHKの番組でご覧になった方もおられると思うが、1976年に日本で初めて重要伝統的建造物保存地区となった。当時の役所の方の情熱がなければ、今頃はただの、過疎地の住宅街だっただろう。

いまやインバウンド需要の高い場所が、こうした日本人が文明と引き換えに捨て去った原風景というのも、皮肉ではないか。外国人ハイカーは、交通の便の良いJR中津川駅で足ごしらえしてから、落合宿をスルーして馬籠宿・妻籠宿まで歩く。そういう人が多いというが、健脚ならば、たしかにワンダホーなルートである。

やまとごころ.jpによると、2019年度(4月~翌年3月)は2月までの11カ月間で、
前年を超える3万7000人の外国人が、写真にある馬籠峠越えをしたそうな。  
国内客も含めて訪れた人は5万5300人。単純計算で、3人に2人は外国人になる。

外国人が妻籠宿に来る理由はなんだ。
「伝統的な町並みを楽しむ」
「観光地化されていない町並みを楽しむ」
そんな声が圧倒的に多い。
馬籠~妻籠間は、距離にしておよそ9キロ。歩いても3時間ほどの抜群なハイクコース。機会があったら自分でも歩いてみたいと思っている。

日本人は知らない。
しかし、世界では歩く旅がトレンドだという。

妻籠宿は、馬籠宿と比べて何となく規模が小さい。しかし、宿泊してみたいと思うのは妻籠。リノベーションじゃなくて、現存の雰囲気が憧れる。コロナの所為で人数規制があり、これまで二回赴いて、まだ宿泊していないのだが……憧れる!

松代屋、いいよなあ。

コロナ禍で制限されていた入国が緩和され、2023年は前年と比べて62倍集客となった「妻籠宿・馬籠宿」8㎞ハイキング。ただし、古き宿場が外国人だらけというのも、ちと寂しい。

日本人の城マニアさんには、有名な場所ばかり足を運ばず、木曾の城跡にも注目して貰いたい。
妻籠にも馬籠にも、戦国の城があったことはご存じか。

妻籠城
南北朝期、木曾家村は足利尊氏に属し、木曾谷南部にまで勢力を拡大した。その際に築かれたのが妻籠城。戦国期に木曾氏は武田信玄に属し、天正10年に織田信長に寝返る。この年に妻籠城は改築したとされる。
天正12年、小牧・長久手合戦。徳川家康から羽柴秀吉に寝返った木曾義昌。9月、木曾義昌は妻籠城に家老の山村良勝300騎を付けて籠城させた。徳川方の菅沼定利・保科正直・諏訪頼忠らは南信州から清内路峠を越えて、妻籠城の対岸の愛宕山を占拠した。このときの山村良勝は孤立無援の中で奮闘し、徳川方を撃退した。妻籠城は歴史的に大きな役割を負ったのである。
妻籠合戦は本隊である秀吉が家康に敗れたこともあり、戦後、徳川軍の猛攻に耐えた妻籠城の山村良勝に対し
「どえりゃあ見事でや」
と、さぞや戦功を賞したことだろう。山村良勝は秀吉から感状を与えられたと記録される。

もうひとつの歴史。
関ヶ原合戦。

徳川秀忠は真田昌幸に翻弄され信州上田に足止めを被った。急いで東山道を走るが……!

慶長五年(1600)9月15日、関ヶ原の合戦。
17日、ようやく妻籠城まで辿り着いた秀忠は、ここで東軍勝利の知らせを聞くことになる。
元和二年(1616)、戦国の重要な拠点だった妻籠城は幕府の決定によって、廃城。

馬籠城は遠山氏の城だったが、武田家滅亡時に木曾氏が横領。先の小牧・長久手合戦時に放棄し妻籠城に籠城したそうだから、戦場にはならなかったらしい。

男滝・女滝は吉川英治の小説「宮本武蔵」の舞台となった滝。
幕末ファンならば、妻籠は皇女和宮御休息の地。
角度を変えて歴史フォーカスを絞れば、同じ風景が違う景色として飛び込んでくる。京都観光と一緒、おなじ場所でも、源平眼鏡や幕末眼鏡で、違う感受性を得られるのと一緒です。

脇本陣が和宮様ご休息の場

深いなあ、妻籠宿。