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蒲生氏郷について

平成24年頃でしょうか。
房州日日新聞で、里見正史三部作の真ん中になる「夏の波濤」を連載していた頃、挿絵を描いて下された日本画家の山鹿公珠先生との雑談中
「蒲生って、高潔でいいよね」
という話題に触れた。会津のことから、そのことに飛んだ気がする。
その頃は、まだ蒲生に手を出す余裕は全くありませんでした。

これがある程度の形をみたのは、令和初頭。
暫く足踏みして、そろそろいいかと、公開できました。
7月26日(金)、無事に完結です。だから、一気に通しで読むことが出来ます。
近頃、単行本や連載に作品をつなげず、ついつい公開できるサイトで作品をお披露目してしまうのは、手抜きじゃないんですよ。連載の場を拡げたくても、なかなか相手になって貰えない。売り文がいちばんなのに、お蔵には世に出ぬ作品が積まれていく。こんな不幸はない。
そういう苦しみも、大盤振る舞いな背景なのです。

文豪コロシアムなるものに登録してみました。
なかなか作品が公開できないのは、メカ音痴ゆえの不手際。好きな人はチャレンジしてください。

さてさて。

「麒麟児の夢」とは、蒲生氏郷の一代記。しかし、切り口を戦国絵巻ではなく、出来すぎ人であるゆえの苦悩と、思惟の豊かさを描きました。
信長・秀吉・家康。
センゴクの天下のながれ。その流れに大なり小なり大名は飲み込まれて、一統への碑になっていく。その大きな歴史の流れに乗ることなく、力と器がありながら、天下への夢をみることもなかった。蒲生氏郷とは、そういう人物です。
もしも5歳長じて本能寺の変を迎えたなら、安土留守の麒麟児はどう動いたでしょうか。秀吉にも理解できなかった信長の想う未来、蒲生氏郷は共有していたとも云われます。
秀吉は戦乱を終えた。終えるまでが、秀吉の全盛期だ。
そのあとが、晩節を穢した。
信長のみた、先の先がみえないゆえの迷走といってよい。

蒲生氏郷は見えていたのだろうか。
自らキリスト教に帰依しつつも、高山右近のように領国をキリシタンで染めることはなかった。千利休門下でも七哲筆頭として茶を愛でる教養。信長に弥助がいたように、氏郷にも異国人家臣がいた。宣教師の奴隷ではなく、イタリアの騎士。海の向こうを、氏郷はイメージしていたのだろう。

世に、if はつきもの。
もしも、氏郷が長命だったとしたら……関ヶ原でどちらに属すだろう。上杉景勝は会津へ赴く必要がなかったから、最上や伊達と対決するのは蒲生だ。いや、豊臣に尽くす義理が氏郷にあっただろうか。
家康をも平らげる武威を発揮して、次の天下を掠めとることはないだろうか。若さは武器である。伊達政宗は20年はやく生まれれば天下を取ったと豪語したが、氏郷はそれよりも甲羅を経ている。
「信長のめざした真の天下」
という大義さえあれば、キリシタンも文人も経済人さえも従える器量があった筈なのです。
「if」
いうは易し。勝手なものです。そんな未来も、あってよかったのに、と思うのは、ワシだけではないことを期待したい。そして、所詮は夢、であるということ。
麒麟児の凄さも、いまはむかし。
語りつがれることも、かなし。

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