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祝歌(アンセム)の丘

  おばあちゃんの想い出をお話してもいいですか? あなたには何時かきっと聞いてもらいたい、と思っていました。ごめんなさい、突然で。そんなに長くはかからないので、迷惑でなかったら、少しだけ付き合ってください。
  あれは去年の5月の日曜日の事でした。おばあちゃんの名前は弥生といいます。1月の半ばに入院してからずっと体調のすぐれない日々が続いていましたが、その日の朝は血色も良く、おばあちゃんは幸せそうでした。「何かいいことあったの?」と聞くと「……教えてあげようか。」と言ってにんまりと笑い、そして、明け方に見た夢のお話をしてくれたのです。

 ……気が付くと小高い丘の上に立っていたの。そこからは周りの景色が遠くまできれいに見渡せてね、そばに立てられていた標識には≪祝歌(アンセム)の丘≫と書かれていたわ。私は15歳。その夏のことのようだった。
  青空の下で光に包まれた薄紫色の山や緑の谷にすっかり見とれていたセーラー服姿の私はふと気付いて丘の麓を見降ろすの。陽炎の先に小さな街が揺れていた。広場が見え、そこには日曜日の市場(マーケット)が立っているようだったわ。丘の上にまで陽気で楽しそうなざわめきが聞こえて、私は誘われるまま陽射しの中、街に続く坂道を下っていった。
 素焼きの赤い瓦屋根が続く街に着くとすぐに広場を目指したわ。夏の風を受けて色とりどりの旗がはためく中、鈴懸の大きな街路樹が緑の木陰を通りに落としていてとっても気持ちよかった。
  広場に着くと行き交う人々で大混雑していて、すぐに私は自分が今どこに居るのかわからなくなってしまった。でもね、不安はなかった。何でもできる15歳だもの。私は好奇心一杯で目を輝かせていた。広場一杯に広がった市場の中を歩いてゆくと本当にたくさんのお店が並んでいて、そこには珍しい品物がずらりと飾ってあった。合唱する花束、自分で味利きをするワイングラス、開くとそこだけ雨が降る傘なんて見た事もない物が売られていたのよ。
  もっと奥に向かって市場を歩いてゆくと、『雨上がりケロケロ一座』の興行口上を早口でまくしたてる子供の背丈ほどもある青蛙、常夜灯の陰で人を化かす話に熱中している九尾の狐と団三郎狸、激辛ハンバーガーを頬張りながら歩く三赤眼を持つ銀色ヒューマノイド、何処から現れるのか見当もつかない3Ⅾホノグラムの黄金カップルといった不思議な住人達とすれ違ったわ。
  きょろきょろしながら歩いて大人一抱えほどもあるお化けカボチャを売る八百屋の前を通り過ぎると私は市場の真ん中に出ていた。海豚(いるか)の群の彫刻が置かれた噴水があって、空高く水柱が立っていた。その片隅に大勢が足を止めている場所があったの。
  大人たちの話声が聞こえたわ。
「この絵描きさんの描く似顔絵はとっても変なのだよ。似顔絵を描いてもらっている人の姿はとても小さくて虫眼鏡で見ないとよくわからないほどさ。その代わりに山や川、星や空が大きく一杯にいつも描かれてある」
「へえ! そうかいな。そんな似顔絵は初めてやな」
――私はどこ?
  似顔絵を見せられると、たいていの人は驚いて、渡された虫眼鏡を覗くと細かなところまでしっかり描かれた自分の顔を見つけてまた驚く。
「面白そう」
  そう思って、「今度は私を描いてくださる?」と私は小さな椅子に座りながら尋ねたの。
「お安い御用です、お嬢さん」
  絵描きのおじいさんは筆を走らせたわ。しばらくして出来上がった絵には色とりどりの花が咲き乱れて、青空の下で私が麦藁帽子をかぶって白い椅子に座っていた。
  私は顔を輝かせてそれに見入った。
「きれい!」
  絵の中は夢の世界だったわ。絵描きのおじいさんは虫眼鏡を取り出して私に渡してくれてね。拡大してみると麦藁帽子の私はにっこりと微笑んでいた。
「お嬢さんの心は晴れやかで何の曇りもない、きれいな世界だった。だから、こんなに美しい絵になりました」
  絵描きのおじいさんは人懐っこい笑顔で話したわ。
「おじいさん、あなたには人の心の中が見えるの?」と聞いてみると、
「分かりません。ですが、描いていると自然にその人の心が住んでいる世界が大きく姿を現すようです。不思議ですね」
  そう言われた私はもう一度似顔絵をじっと見つめた。そうして見ているうちに「お家のみんなに見せてあげよう。きっと喜ぶわ」不意にそう思ったの。そして、目をあげて帰り道を探したのだけど、どこから来たのか皆目見当がつかなくなっていた。
「帰り道が……」
「どうしました、お嬢さん?」
「帰り道が分からないの」
「そうですか。でも大丈夫、私が送ってゆきますよ。川沿いの土手を登ったあの丘の所まで。そこから来たのでしょう?」
  困り果てている私を絵描きのおじいさんは励ましてくれた。そして、広げていた画材を手慣れた様子で仕舞って私の手を取ると迷路のような市場をスイスイと通り過ぎていった。遅い午後の日差しを浴びてまぶしく光る街を抜けて、キラキラと水面が光る川沿いの土手を歩いた。そして、丘の上まで来ると絵描きのおじいさんと私は沈んでゆく太陽を見ることができたの。
「きれいな夕陽」
  私はうっとりと見つめたわ。
「そうだ。忘れる前にその絵に少し足しておこう」
  そう言いだした絵描きのおじいさんは私から似顔絵を受け取ると筆を取り出して、素早く絵を書き足した。
「これでいい。これを持って行きなさい」
  私は新しく書き足された絵を受け取って、それに目を落とした。そこには一人の青年が描き足されて、私のそばに立っていたの。虫眼鏡を取り出して拡大してみると……。
「あなたは何故、彼を!」
  驚いた私がハッとして振り向くと絵描きのおじいさんの姿はもうそこにはなくて、遠くから澄んだ子供達の祝歌だけが聞こえていた。

「夢のお話はここまで」
「その絵描きのおじいさんは誰だったの?」
「若い頃に亡くなったおまえのおじいさんだよ。私と一緒に歳をとってくれていたのね。そして、夢の中で会いに来てくれたのよ、嬉しい」
 笑顔でそう話すとおばあちゃんは目を閉じて自分に宿った幸せをかみしめているようでした。

 この時、わたしは初めて永遠というものに触れたのだと思います。おばあちゃんの愛は過ぎていった時間の中に永遠に記憶されていました。永遠とは記憶を留めるための揺りかご。誰もがその中で夢を見ることができる揺りかご。わたしはそう信じるようなりました。
  それからしばらくしておばあちゃんは息を引き取りました。その時の表情は穏やかで幸せそうでした。きっと、おばあちゃんは15歳の女学生に戻って、懐かしい人の待つ祝歌の丘に旅立っていったのだと思います。
  これがあなたに聞いて欲しかったおばあちゃんの小さな物語です。わたしにもこんな素敵な物語が訪れるでしょうか? 
 ……これでも勇気を出してあなたへの想いを告白しているつもりです。よろしければ、何時でもいいのでご返事をください。どんなご返事でも心配ありません。あなたを愛することのできた私は永遠に本当に幸せなのですから。
              了   

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