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エコロジカルアプローチ

本書のタイトルに謳っている「エコロジカル・アプローチ」は、読者の皆様にはまだ耳慣れない言葉でしょう。単刀直入に申し上げます。エコロジカル・アプローチという「運動学習・スキル習得」理論は、これからのスポーツ指導のあり方を、ひいては教育のあり方すら劇的に変えていく可能性を秘めた、指導実践や学習実践の強力な手引きとなるものです。

 タイトルに惹かれて、本書をお手に取られているのは、サッカーをはじめとするスポーツ指導者の皆様や、もしかすると教育関係者の皆様かもしれません。本書がスポーツ選手を指導していく、あるいは子供たちを教育していく姿勢、スタンスを根本から見直すきっかけとなれば、それに勝る喜びはありません。

ポルトガルでの衝撃的な“出会い”

 本題に入る前に、少しだけ本書が誕生した経緯に触れさせていただきます。

 筆者もサッカーコーチの一人です。あらゆる育成年代のコーチを務めながら、スポーツ科学系の大学院に通い、本書のテーマである「運動学習・スキル習得」理論(この先は「運動学習理論」と表記します)を学びました。

 後から振り返れば、当時の筆者が学んでいたのはエコロジカル・アプローチとは明らかに異なる、スポーツ選手一人ひとりの違いを考慮に入れない、伝統的アプローチの手法でした。万人にとって最適な教え方があるという前提で、いかに運動を学習させ、いかにスキルを習得させるかという研究が、日本では主流になっていたのです。そうした指導のあり方を、ここでは「規定的な指導」と表現しておきます。

 規定的な指導に違和感を覚え、限界を感じた筆者は、スポーツ指導の分野で先進的なポルトガルのポルト大学に留学する道を選びます。そこで出会ったのが、エコロジカル・アプローチという運動学習理論でした。

 この運動学習理論で語られているのは、筆者がそれまで学んできた伝統的アプローチとは大きく異なる、時として180度異なる真逆の主張でした。

 運動学習理論とは、人の運動行動がどのように行われているか、どのように学習されていくか、それらを科学的に分析し、仕組みを解き明していくものです。

 伝統的な運動学習理論は、人をコンピューター(脳)+ 機械(身体)のような存在だと見積もります。その上でトレーニングを通じて脳内に運動プログラムが記憶・蓄積されていくことが人の運動学習だとして、学習はトレーニング時間に比例して進むものだと主張します。10練習したら10学習する、という主張です。

 一方、1980年代頃から人の運動学習はそのような「線形的な」プロセスではないとする趣旨の報告が相次ぎます。運動学習の進み方を線にして描くと、右肩上がりに直線的に学習していくのではなく、急激に学習が進む過程があり、停滞する過程もあり、落ち込む過程もあるという「非線形的な」プロセスであることが明らかになってきたのです。

 こうした研究を受け、人の運動学習はある種の「制約」に対する適応、つまりは相転移現象であると考えるエコロジカル・アプローチの学説が登場します。

 相転移とは、例えば水を温めたら100℃を境界線として水蒸気になるように、一気に状態(位相)が変化する現象です。そして、水に対する温度のように、運動に関してもそれに関わる重要なパラメーター(制約)を操作することで、ある運動が突如として現れる相転移現象こそが運動学習であると考えられるようになりました。

 一例を挙げると、人がスキップという動作をできるようになる過程です。動作のテンポを速くする、あるいは遅くすると、突如スキップできるようになります。この場合はテンポが、操作する制約です。

 このようにエコロジカル・アプローチは、人を機械仕掛けの存在ではなく、水と同じように周囲の環境に柔軟に適応する複雑なシステムと見なします。少し難しい言葉で表現すると「適応的複雑系」の存在です。

「制約」を操作することで「学習」を促す

 エコロジカル・アプローチという運動学習理論は、人の運動学習を周囲の環境にドラスティックに適応する現象として捉え直し、学習がなぜ非線形で進んでいくかを説明しています。

 人をどのような存在と見積もるかで運動学習の理論が変わるように、人を水のような適応的複雑系の存在と見なすと具体的な指導方法も変わります。伝統的アプローチでは、コーチが正しい運動を言葉で規定する言語的な指導によって学習を導きます。一方、エコロジカル・アプローチでは運動を引き出す重要な制約を練習環境に設けます。具体的には「使用する用具」「コートサイズ」「人数比率」「ゴール方式」「その他のルール」などが設ける制約です。こうした制約を巧みに操作することで、人の適応行動としての運動学習を引き出します。

 学習を主導するのは、コーチによる言語的・規定的指導ではありません。練習環境にデザインする用具やルールなどの制約です。運動学習理論であるエコロジカル・アプローチを具体的なコーチングメソッドに還元する手法は、「制約主導アプローチ」と呼ばれています。分かりやすく表現すると、エコロジカル・アプローチが理論で、制約主導アプローチが実践メソッドです。

 近年、とりわけ欧米諸国でエコロジカル・アプローチや制約主導アプローチが注目されている理由は、実証研究によって明らかになってきた学習効果の高さにあります。多くの研究で、伝統的アプローチを凌ぐ学習パフォーマンスを見せているのです。

 そうした実証研究の後押しもあり、エコロジカル・アプローチと制約主導アプローチは、サッカーのエリートクラブだけでなく、あらゆるオリンピック競技の指導や、各国スポーツ協会での指導者育成プログラム、タレント開発プログラムなどに波及的な広がりを見せています。この流れは今後、加速度的に広がっていくと考えられます。

あらゆる指導メソッドの基礎になる土台

 ポルト大学に留学し、エコロジカル・アプローチに出会った筆者は、この理論の説得力の強さに驚かされました。ただ驚かされただけでなく、人のスキル習得や集団戦術に関する見方が劇的に変わり、スポーツ指導全般への根本的な姿勢すら変わっていくのです。

 何よりも驚いたのは、エコロジカル・アプローチという理論の汎用性です。この理論をしっかり理解することで、気づけば戦術的ピリオダイゼーション理論や、その他のトレーニング理論への理解が深まっていたのです。

 このような個人的な経験もあり、エコロジカル・アプローチは、あらゆる指導メソッドやトレーニング理論を学んでいくための土台となる理論だと筆者は捉えています。もっと言えば、スポーツ指導のあらゆる領域に携わる方々が学ぶべき基礎教養的な学問であるとも感じています。

 エコロジカル・アプローチという理論を学んだ上で、日本のスポーツ指導に目を向けると、依然としてコーチが指導の中心にいて、正しい運動を言葉で規定する伝統的なアプローチが主流のままのようです。エコロジカル・アプローチという運動学習理論で解明されたスキル習得の仕組みを無視した、前例を踏襲しただけの指導も散見されます。

 そもそも日本のコーチたちは、エコロジカル・アプローチに限らず、運動学習理論そのものを学ぶ機会が少ないのではないでしょうか。多くの指導者は自身の専門競技に関する知識は豊富に持っていても、人がどのようにスキルを習得していくか、その基礎的な知識を持たずに指導にあたっている実態が少なからずあるのではないかと想像しています。

 筆者自身はポルト大学への留学以降、伝統的アプローチからエコロジカル・アプローチへと指導の根本にある理論を転換した一人です。本書を執筆した一番の動機は、多くの日本の指導者にエコロジカル・アプローチという斬新でありながら本質的な理論による深い洞察を感じ取っていただき、さらには実際の指導に活用していただいて、選手のパフォーマンスをこんなに飛躍的に向上させられるのだと実感してほしいと思ったことでした。

筆者が実際にエコロジカル・アプローチを学んでみてよく分かったことですが、この運動学習理論は率直に言えば難解です。たしかに難解ではあるのですが、その奥義を学び、実践していくことに千金の価値があるということもよく分かりました。だからこそ、制約主導アプローチを含めて、その奥義や実践法をできるだけ噛み砕いて伝える入門書であり、できるだけ分かりやすく伝える解説書という位置づけの本書を、日本語でお伝えできる大きな意義を感じています。

楽器の演奏や包丁の使い方まで応用可能

 本書は全4章の構成としています。

 エコロジカル・アプローチという理論そのものは難解です。ただし、結論は単純で、「制約
主導アプローチを実践すべき」というその一言にまとめられます。

 制約主導アプローチの具体例を知りたい読者の皆様は、第2章から読み進めていただいても構いません。指導者がどのようなことに留意すればよいか、まとめてあります。

 なぜ、「制約主導アプローチを実践すべき」という結論が得られるか、興味を持たれる読者も少なくないでしょう。そこでエコロジカル・アプローチという理論について概説する第1章を設けました。理屈を知っていると、実践する際の説得力が高まります。

 第3章は、制約主導アプローチの対象を、スポーツ選手個人からスポーツチーム全体に拡大します。一人のスポーツ選手が筋肉や関節に協調的な関係、つまりコーディネーションパターンを形成していくことは、スポーツチームが選手間に対人的なコーディネーションパターンを形成していくことと類似した性質を持っています。第3章では、チームが対人コーディネーションをいかにして学習していくか、そのために「ゲームモデル」をどのように制約として用いるか、詳しく解説していきます。

 第4章は、より長い時間スケールでのタレント開発に着目し、エコロジカル・アプローチの関連領域である「アスレチック・スキルズ・モデル」のスポーツ教育に関する知見を紹介していきます。アスレチック・スキルズ・モデルは、オランダ発のタレント開発プログラムで、様々な競技のトップアスリートがどのようなプロセスを経てエリートレベルまで到達しているか、分析・研究する学問領域です。

いくつか、あらかじめお断りしておきます。

 筆者の経験によると、エコロジカル・アプローチには、それを単体で学習しても理解しにくい部分があります。そこで、全章を通じて日本では主流となっている伝統的アプローチと適宜対比する構成を採用しています。

 本書は可能な限り平易に、エコロジカル・アプローチを噛み砕いて解説することを目的としています。そのため、理論の難解な部分のいくつかは割愛させていただきました。ただ、どうしても省略できないと判断した話は、「補足コラム」という形にして要約して記載しています。ここは読み飛ばされても、全体の趣旨は把握できるような作りとしています。

 エコロジカル・アプローチには、今日的なトピックスである「ゲームモデル」「原理原則」「プレーの自動化」「言語化」「一貫指導」「タレント開発」などに新しい解釈を与えてくれる側面もあります。本書でも、これらのトピックスに触れています。

 筆者自身はサッカーの指導者ですので、サッカー指導に関する言及が多くなりましたがそもそもエコロジカル・アプローチという理論も、制約主導アプローチという実践も、競技を問わずに活用していけるものです。さらに言えばスポーツに留まらず、楽器の演奏や、包丁の使い方までスキル全般を対象としています。

 本書では、サッカー以外の競技における研究や指導法も取り上げています。制約主導アプローチを実践していく際に、他の競技ではどのような問題が発生し、他の競技の指導者はどのように対処しているか、別の角度からヒントを与えてくれます。ぜひ、参考にしてください。

 エコロジカル・アプローチと制約主導アプローチについての、スポーツ指導という領域では日本初の入門書であり解説書でもある本書を、ぜひサッカー指導者だけでなく、様々な競技のスポーツ指導者、スポーツトレーナー、体育教師の皆様などに手に取っていただければ幸いです。

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