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あなたがいるという救い

自分がどんな状態でも「いつまでも待つよ」と離れない人がいること、この事実が何か最悪な選択、例えば自殺などをしてしまう人に対して最後の砦になるのではないかとふと思った。

まずこのことを考えたきっかけは、少し前のニュースで公園で遊ぶ子どもの声がうるさいと市に苦情が入ったというニュースを観たことだ。
子どもの遊ぶ声が騒音になるのかどうか、個人的にはならないと即決できた。恐らく多くの人がそう考えるのでは?
それよりも「自分の周辺に人の気配がする」というのは本来落ち着く状況ではないのかなと感じた。
子どものころ実家で母が料理をしている音を聞くと妙に落ち着いたこと、今でも家に帰ると何となくテレビや音楽を流し、声を感じようとすること。
根本的に人は一人では生きていけない。誰かと繋がっていないと社会的な生活はおくれない。そんな時に人の気配がする時に安心感をえるのではないかと思う。

ここで最初の話に戻るが、弱っている人が求めていることは「自分がここにいていいんだ」という承認ではないだろうか。
ただそれは他者からのつながりの中でしか生まれない。
そんな時に物理的な距離関係なく、自分のことを誰か気にかけてくれているといった事実を身近に感じられる瞬間というのは何よりも救いになるのではないだろうか。
もしあなたの近くに弱っている人がいれば説教じみたアドバイアスや鼓舞などいらない。ただあなたの存在をその人に感じさせる行為自体が効果的な方法のかもしれない。
昔読んだ本「大事なものは見えにくい」鷲田清和著のなかで
「自分のものである時間を誰かにあげるという信念こそホスピタリティ」という一説がある。
この言葉を今の自分の根っこにに深く突き刺さっている。
もし直接大事な人に会えるなら、ただ傍にいるだけでいい。話さなくてもいい。「あなたがいる」という事実が計り知れない力をもつ。



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