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『翠子さんの日常は何かおかしい』第30話 力の秘密(その2)

 通りを行き交う人々は一目でギョッとする。自ら道の端に寄った。
 道の真ん中を時田翠子が勢いよく歩く。着ていた長袖のブラウスは薄い桃色で嫌味のない愛らしさを演出していた。バギーパンツは黒と緑のチェック柄で一歩毎に風を孕んではためく。
「……凄いな」
 端で見ていた青年が呟いた。見開いた目は翠子の背中に向けられた。真新しい赤色のバックパックは太くて長い。血に塗れた墓石のように見る者を威圧する。
 翠子の足取りは軽く、重さを微塵も感じさせない。にこやかな表情は全く崩れず、ショートの髪は汗で肌に張り付くこともなかった。
 住宅街に繋がる脇道に入ると童心に戻ったようなスキップに変わる。バックパックの中からカチャカチャと瓶が触れ合うような音がした。
「はしゃぎ過ぎた……」
 通常の歩き方に戻った。店舗は急激に数を減らし、一戸建てが大半を占める。自然に口角が上がり、陶酔したような目となって生唾を呑み込んだ。
 右手に曲がると歩みが遅くなる。目立つ位置に半透明の仙石竜司が突っ立っていた。白い特攻服姿で腕を組み、苛立つ足が何度も地面を蹴っている。
「姉御、姉御おおお!」
 翠子を目にした途端、興奮した様子で駆け寄ってきた。
「なんなのよ、大声で」
 怒りの目を向けられた竜司は取り繕ったような笑みを見せる。
「折角なので歩きながら話をしましょう」
「ちょっと待ちなさいよ」
 前をいく竜司が気まずそうな顔で後ろを振り返る。目が据わった翠子は親指で真逆の方向を示した。
「歩くのなら自宅のある、こっちでしょ」
「いやぁ、何と言いますか。賑やかな店に行ってビールを飲みながら積もる話でもしようかと」
「あんたねぇ。この背中にある物をなんだと思っているのよ。デパートの物産展で手に入れた地酒や地ビール、それに珍しい高級珍味で一杯なんだからね」
「そ、そうですか。それは次の楽しみに残して置きましょう。取り敢えず、今は庶民的な店に行ってゆっくりと語り合いましょう」
 竜司は小刻みに頭を下げて説得を続ける。引き止める長さに比例して翠子の鼻筋の皺が増えてゆく。
「悪いけど、そういう気分じゃないのよ。安酒なら飲み慣れてるし。なんたって平社員だからね!」
「わ、わかりました。帰りましょう。歩きながらでもいいですから深呼吸をしてください。青く澄み切った大空を想像してもいいです。大草原でも気持ちが安らぎます」
「ごちゃごちゃうるさいと心が休まらないわ!」
 翠子は一喝して歩き出す。竜司は開き掛けた口を無理に閉じ、おろおろして横手に張り付く。
「なんなんのよ、今日のあんたは!」
「大草原です。宇宙の心を持って」
「もう、いいわ!」
 翠子は足を速めて竜司を引き離す。ワンルームマンションの敷地に踏み込んで奥へと突き進み、自宅のドアドブを回した。勢い込んで入ると、え、と声を漏らして立ち止まる。
「あ、あの、物が散乱しているように見えますが、これも徹底した掃除を行なっている最中でありまして」
 遅れてきた竜司が耳元で部屋の現状を説明する。翠子は震える頭で横目をやった。
「私の下着まであるんだけど」
「そ、それは、その、何と言いますか」
「部屋の中が酒臭いんだけど」
 翠子は目を剥いた笑顔で迫ってきた。竜司は仰け反った。返答に窮して目が不自然に揺れ動く。
「訊くまでもないか」
 パンプスを脱ぎ捨てた翠子は部屋に駆け込んだ。中央の座卓には着物姿の時田赤子が頬杖を突いた姿で辛うじて座っていた。周囲は引き出された物の中身で溢れ、横倒しとなったベッドは壁際に押しやられていた。
「ねえーさま、赤子の話を聞くのれす」
 赤子は赤ら顔で座卓の上を掌で叩いた。側にあったコップの中身が揺れた。一升瓶の『男勝り』は空になっていた。
 竜司が走り込んで土下座の姿勢を取った。
「姉御、申し訳ありませんでした! 掃除の途中で見つけた酒を、俺は必死になって止めたのですが、妹さんが強くなる秘訣と言って飲んでしまいました! 未成年の飲酒を止められなかった俺の責任です! 本当に申し訳ありませんでしたあああ!」
「誰が未成年よ。赤ちゃんは四月二十一日で二十歳になったのよ」
「それ、本当の話ですか!?」
 ガバッと頭を上げた竜司が疑心に満ちた目を赤子に向ける。
「そうなのれす。赤子は立派な大人れ、満開の桜が似合ういい女らのれす」
 赤子は揺れる頭で胸を張ってバタリと後ろに倒れた。天井を数秒ほど見詰めて無表情で上体を起こす。頭の揺れが激しくなった。
 苦笑いを浮かべた翠子は背中のバックパックを適当に下ろし、赤子の隣に座った。
「どうしてお酒を飲んだら強くなれると思ったの?」
「らって、らって、ねえーさまはいつも飲んでいるのれす。こっそり隠していたお酒は特別なものれ、力の秘訣と思ったのれす」
「あー、そうね。そう思うかもしれないね。でも、今回は違って、日本酒を一定の温度で寝かせると美味しくなるって小耳に挟んだから。まあ、寝かせていたことを忘れていたから意味がないんだけど。で、味はどうだった? 美味しかった?」
「れん、れん、わからないのれす。でも、強くなった気がするのれす!」
 赤子は頭を傾けた状態でふらりと立ち上がる。プルプルと全身が震えて両頬が一気に膨らんだ。冬籠りに備えたリスのような状態で青褪あおざめ、一気に凹ます。くずおれるように座るとコップの中身をあおり、上体を回すように動かして横手に倒れた。
「無茶するから」
 翠子は赤子を仰向けにして頭を膝に載せた。乱れたおかっぱ頭を撫でるようにして整えていく。程なくして隙間風が吹き抜けるような寝息が聞こえてきた。
 黙って見ていた竜司がにじり寄る。
「姉御、妹さんは強くなる為に頑張っています。悪く思わないでください」
「わかっているって。ずっと私と比べられてきて、赤ちゃんは辛かったと思うよ。能力が目覚めた時の喜びようは、もう凄かったんだから」
 声に出して笑う。翠子は赤子の頭を優しく撫でた。
 竜司も表情を緩め、思い直したように真顔となる。
「姉御はその為に家を出た、とか」
「私は自由になりたくて、こっちの世界で楽しんでいるだけよ」
 翠子は晴れやかな顔で返した。


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