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夜散歩


第1話 夜の大冒険

 明かりを消した部屋のベッドで、わたしは仰向けになっていた。身体を覆う掛け布団はもしもの時の保険。瞼は開けたままで耳に意識を傾ける。少し前に二つ上のお兄ちゃんがトイレに起きたみたいだけど、他には何の音も聞こえてこない。

 冒険に出るなら今しかない。

 用意はちゃんと出来ている。ガバッと起きて壁のスイッチを押した。部屋が本当の色を取り戻した。モスグリーンのリュックはベッドの側ですっくと立っている。じっと見ているとしなびた感じが少し頼りない。冒険に必要な物は入れたはずなのに不安が胸にじわじわと広がった。

 もう一度、見てみよう。

 外に出れば遠くに山が見える。でも、暗くて歩けないような田舎ではない。細い道だと街灯が少ないから転ぶこともあるかもしれない。そこで活躍するのがLEDライトの懐中電灯。単三電池が二本とは思えない明るさで周囲を照らしてくれる。あ、虫よけスプレーは出かける前に使わないと。
 掌に吹き付けて顔や首によく塗り込む。今日はスカートではなくて、七分丈のズボンだからすねにも擦り付ける。
 あとはタオルにペットボトルのお茶。スマホは万能グッズとして持っていく。

 さあ、冒険に出発だ。

「そうだった」
 洋服ダンスを開けた。奥の方に突っ込まれていた野球帽を取り出して目深に被る。これで十四才の女子には見えないはず。なんだけど、実際はどうなんだろう。口に出して誇れる話ではないけれど、平らな胸には自信がある。スポーツブラは押え付けるものがほとんどなくて役に立っていない。断言すると、なんか、悲しくなってきた。
 沈みそうになる頭をフンと勇ましい鼻息一つで持ち上げる。Tシャツの上にパーカーを羽織ってリュックを背負う。後ろに引っ張られるような感覚で背筋が伸びて、同時に気分が上向いた。
 最後の確認で部屋を見回す。机の上のパソコンに目が留まる。フリースクールの問題は解いて送信した。宿題は出ていない。

 メールはどうだろう。

 ふと浮かんだ考えは頭を振って否定した。考えたら切りがない。真横を向いていた帽子のつばを正面にして部屋の明かりを消した。行動の開始だ。ゆっくりとドアを開ける。顔だけで左右を見て素早く廊下に出た。
 壁に背中を付けて横向きに歩く。築四十年の家らしく、真ん中はトラップになっていて踏むと軋む。トイレを通過した。L字型の廊下を抜けると玄関はすぐそこ。壁を離れて速足で突っ込む。
 運動靴に足を捻じ込んだ。扉には鍵が掛かっていた。震える指先で突起を摘まみ、金庫破りのイメージで回す。冷ややかな金属音は思ったよりも音が小さかった。
 扉を少し開く。出来た隙間に身体を入れて両手で閉めた。ズボンのポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込み、軽い息のあとに思い切って鍵を掛けた。意外と音が大きく、足がすくんだ。
「……大丈夫みたい」
 空で笑う三日月に向かって胸を張る。わたしは夜の冒険の一歩を踏み出した。

 家の前の道には誰もいなかった。正面の家の明かりは消えている。代わりに電信柱の冷たい感じのライトが周りをぼんやりと包み込む。
 道の真ん中には良いイメージがなかった。踏んでも音は出ないとわかっていても道の端を選んで歩く。自宅から二軒目で強い光を受けた。壁に取り付けられた筒状のライトが、わたしを照らす。

 舞台女優になったみたい。

 歩きながらクルリと回る。飛び跳ねて隣の家に行くと新たなスポットライトを全身に浴びた。鉢植えやプランターの花は小さなお客さん。取って置きの笑顔をあげる。拍手喝采とはいかないけれど、吹いた風で頷いてくれた。気分を良くしたわたしは軽やかに舞い踊る。背中のリュックがカチャカチャとリズミカルに鳴った。
 二車線の道路に突き当たる。ファミレスは閉まっていた。その隣の居酒屋も同じように明かりを消して暗い。枯れ木のような街灯だけが誰もいない歩道を照らしていた。
 手足を元気よく振って歩道をゆく。遠くの方に小さな明かりを見つけた。お父さんがこじんまりとした縁側で吸っている煙草の箱に似ていた。
 近づくとコンビニだった。駐車スペースはがらんとしていた。ガラス越しに見える雑誌コーナーで立ち読みをしている人の姿もなかった。あまりに人がいないので心配になる。レジを見るとお母さんくらいの人がいた。眼鏡の奥の目を指で擦りながら大きな欠伸をした。

 わたしがお客さんになろう。

 歩き掛けた足が止まる。パーカーのポケットに手を突っ込んだ。何も入っていない。ズボンを調べると自宅の鍵が出てきた。
「……財布がない」
 必要な物は全てリュックに入れている。そのせいで財布の存在をすっかり忘れていた。ごめん、と小声で謝って速足で離れた。野球帽の鍔を下げて前のめりで歩いた。
 明るい光が右目に入る。顔を上げると道路の向こう側に大きなコインランドリーがあった。驚きの白さで光り輝く。二台の車が停まっていたことにほっとする。
 ただ、夜の冒険にはふさわしくない。逆の方を何となく見ると鳥居が立っていた。赤い部分が剥げて長い時を感じさせる。
 奥を覗いてみる。石畳の道が闇に呑まれている。両側は黒い影を引き伸ばしたような木々に覆われていた。
 背中のリュックを下ろした。ペットボトルを取り出して少し飲んだ。落ち着いたところで懐中電灯で奥を照らす。丸い光の中心に石段が見えた。

 行ってみる?

 弱腰の自分にムッとして急いでリュックを背負い直す。懐中電灯を手にして鳥居を潜る。ひんやりとした空気に包まれて身体を縮めて歩く。深い山に迷い込んだ遭難者の気分になった。大きく息を吸うと湿ったキノコのような匂いがする。
 石段の前で止まった。懐中電灯で先を見ると、すっぱり切り取られたようになっていた。
「……行くよ?」
 いいよ、とは返って来ない。そんな反応をされたら泣いて逃げる。懐中電灯を少し下げて一歩を踏み出す。よく見ると苔が生えている。角ばったところの一部が欠けていて人の行き来があるように思えない。
「冒険だから」
 さっきよりはしっかりした声で石段を上がる。頭の中で数えていくと十五段。辿り着いた先におやしろがあった。百五十二センチのわたしの身長よりも低い。格子の扉の奥には丸い鏡のような物が置かれていた。周囲には米粒が散らばる。
 お社の周囲に他の道はなかった。懐中電灯を石段に向けて引き返す。

 え、音がした!?

 石段の途中で足を止めた。聞こえた方向はわかっていても光を向けることが出来ない。風のいたずらかもしれない。それ以外の考えには蓋をした。緩んで外れる前に残りの石段を下りた。
 覆い被さる木々を無視して石畳の道を俯いて戻る。鳥居の柱が目の端に見えて顔を上げた。
 コインランドリーの白い輝きに心が満たされる。

 帰って来れたんだ。

 涙ぐみながら鳥居を駆け抜けた。そのままの勢いで元の道を走って戻る。
 空で笑っていた三日月に負けない笑顔を返した。

第2話 嬉しい約束

 黒いTシャツにベージュのオーバーオールを合わせた。野球帽に伸ばした手は途中で引っ込めてブラウンのチューリップハットを被る。
「うん、可愛い」
 ギリギリで男子にも見える、と思う。リュックは部屋の隅でお留守番。財布は胸にあるポケットに入れた。
 うきうきした気分で自分の部屋を抜け出す。物音一つしない。廊下の隅を歩いて玄関に向かう。

 ドアの開く音がした。

 ほぼ同時にわたしは動きを止めた。意識した笑みで後ろを振り返るとお兄ちゃんが立っていた。パジャマではなくて赤いランニングシャツにジーパン姿だった。
 じっと見ているとお兄ちゃんは目を逸らした。ツーブロックの髪を手で撫で付けると前の方を指さした。
 頷いたわたしは玄関に急ぐ。お兄ちゃんは後から付いてきた。並んで靴を履いて一緒に外に出た。
 家の前の道で改めて向き合う。
「お兄ちゃんも夜の大冒険に出掛けるんだね」
「違う」
 一言で歩き出す。わたしは横に並んだ。歩幅が違うせいで軽いジョギングになった。
「お兄ちゃん、また身長が伸びた? 髪型のせいなのかな」
「百八十四になった」
「四センチも伸びたんだ。やっぱり背が高いと世界が違って見えるのかな。わたしは百五十二だからすごく気になる」
 お兄ちゃんは足を緩めた。こちらに顔を傾けて切れ長の目を更に細くした。わたしはオーバーオールの太腿の生地を摘まんでパンツルックを強調する。
「……肩車はしない」
「えー、期待したのにぃ。誰もいないし、恥ずかしくないでしょ。わたしなら全然、平気だよ」
「……俺が恥ずかしい」
 髪に手を当てて足を速める。わたしは小走りで横に付いた。
「今更なんだけど、どこに行くの?」
「コンビニ」
「お兄ちゃん、甘い物は苦手だよね。お菓子の線はないからカップ麺かな。近所のコンビニにはイートインコーナーがないから家で食べることになるんだけど、手作りにこだわるお母さんに見つかるとマズイんじゃないの」
「目覚ましの単一電池」
 前を向いたまま、ぽつりと口にした。思い出した瞬間、頭の中でジリリリンと甲高い音が鳴り響く。
「あれねー。すごい音だから、わたしの部屋まで聞こえるんだよねぇ。スマホの目覚ましにする気はない?」
「無理、起きれない」
「それならわたしが起こして、あげられないんだよね」
「俺より寝るし」
 お兄ちゃんの目が優しくなる。笑っているのかもしれない。
 二車線の道路に出た。お兄ちゃんは迷わなかった。煙草の箱のような店舗に向かう。わたしは胸のポケットに手を当てた。

 今日は財布があるからお客さんになれる。

 暗い店舗を通り過ぎて光り輝くコンビニに到着した。前に見た時と同じで駐車スペースに車はなかった。隅の方に一台のママチャリが置いてある。
 お兄ちゃんが入る前に中年男性が店から出てきた。膨らんだビニール袋を提げていてカップ麺の一部が覗いていた。目にした途端、いつか食べたカレー味が口の中に広がる。

 買う物が決まった。

 お兄ちゃんの後ろに付いて店舗に足を踏み入れた。雑誌コーナーを風のように通り過ぎる。飲み物には見向きもしない。正面に見える奥の棚に突っ込んだ。
 数々のカップ麺に両側から押されてとても肩身が狭い。そんなほっそりした一個を手に取った。英語の名前が湯気のように揺らいでいる。単数形なのが少し気になった。麺は複数だからヌードルの後ろには『s』を付けた方がいいと思う。意見を求めようと周りを見て気付いた。
「あれ、お兄ちゃん?」
 速足で店舗を巡るとレジにいた。会計が始まる前に単一電池の横にカップ麺を置いた。
 お兄ちゃんは目で問い掛ける。わたしは飛び切りのスマイルを返した。
「ご一緒でよろしいでしょうか」
 レジの男性がお兄ちゃんに向かって言った。
「……はい」
 わたしは先に外に出た。明るい店舗に背中を向ける。視線を上にやると綻びのような星が見えた。
おごるつもりはない」
「えー、わたしのスマイルはゼロ円なの?」
 振り返ったわたしに手を突き出す。掌が催促するように上下に動いた。金運線はかなり短い。
「なーんてね。ちゃんと財布は持ってるよ。だから心配しないで」
 胸のポケットから財布を取り出し、中を広げた。白っぽい硬貨は一円だった。銀色は五十円。百円と五百円は不在で十円玉を数える。下の方には折り畳まれた千円札があった。
「お兄ちゃん、あの、百十七円なんだけど」
「足りない」
「千円札はあるんだけど、お釣りはある?」
 うかがうような上目遣いをするとお兄ちゃんは大げさな溜息を吐いた。
「……帰るぞ」
「大冒険は始まったばかりだよ」
「家でも冒険できるだろ。カップ麺で」
「えー、はい、そうですね」
 睨まれたわたしは大人しく家に引き返した。

 部屋に戻った。パジャマに着替えたところでドアが控え目にノックされた。
 開けるとお兄ちゃんが立っていた。目を横に向けたまま、髪を撫で付ける。
「どうしたの?」
「単二の電池、あるか」
「どうだろう。なんで?」
 見つめているとお兄ちゃんの唇の端が吊り上がる。
「……単一じゃなかった」
「あ、そういうことね。ちょっと待ってて」
 机に直行して引き出しを開けた。ノートや文房具に混ざって細長い電池を見つけた。不要な単三を隅に押しやり、奥まで探す。
「ないかぁ」
 視線は下の大きい引き出しに向かう。
「懐中電灯はあるけど……そうだ!」
 急いで開けた。中にあった懐中電灯の中から電池を取り出した。握り締めて笑顔で戻る。
「お兄ちゃん、単二の電池があったよ」
「懐中電灯はいいのか」
「予備があるから大丈夫だよ」
「そうか、悪いな」
 軽く頭を下げてお兄ちゃんは自分の部屋に戻ろうとした。横を向いた状態で突然に止まる。迷っているような表情ではにかむ。
「今度、肩車をしてやるよ」
 早口で自らドアを閉めた。
「……お兄ちゃん」
 笑みが抑えられない。握った拳を無言で天井に突き上げた。

 少し寝るのがもったいない。そんな気分で部屋の明かりを消して布団に潜り込む。目を閉じると瞼がピクピクする。内側から誰かがノックしているみたい。くすぐったいような感じもして思い切って瞼を開けた。
「なんか、素敵かも……」
 部屋に夜が来てわたしを優しく包んでくれる。

 これからもよろしくね。

 夜に見守られて、わたしは眠りについた。

第3話 集団

 深夜にカップ麺を隠れて食べる。スリルはあっても冒険と呼べるものではなかった。易々と達成してしまった。
 やはり真の冒険は夜の外にある。頭ではわかっていた。楽しいだけではないと。大冒険には危険が伴う。わかっていたのに気が緩んだ。危機感が薄れたところを狙われた。
 今のわたしは俯き加減で夜の道を歩いている。速くはないが遅くもない。闇に紛れた忍者を強く意識した。街灯の白々とした明かりが少し恨めしい。目深に被った野球帽と黒いパーカーの力を信じるしかなかった。
 ちらちらと前を窺う。集団が一層、近くなる。
 中学一年の時に同じクラスだった前川さんが中心にいて恋バナに花を咲かせていた。髪はショートで小顔。大人っぽいチュニックを着ていた。明るい性格でリーダー的な存在は変わっていないらしい。
 隣にいた太田さんはパンツルック。白のサマーセーターが似合っている。小学三年の時に同じクラスになった。普通に会話をしていて関係は悪くない。
 他に三人の女子がいた。派手な服と薄い化粧が特徴的で初めて見る顔だった。
 わたしは気付かれないように自然に端へ寄る。最後にちらりと集団を見たが、こちらを気にする者はいなかった。

 緊張の一瞬が訪れた。

 集団と並んだ。すぐに離れた。走り出したい衝動を抑えて、ゆっくり後ろを振り返る。全員が背中を向けていた。ほっとした、その時、目に留まる。
 歩道の中ほどに丸っこいヒグマのストラップを発見した。短い手足を伸ばした姿は持ち主に『置いて行かないで』と必死に呼び掛けているように思えた。
 最初から道に落ちていたのだろうか。集団に目が引き寄せられてはっきり覚えていない。突然、現れたように感じる。そうなると集団の誰かが落としたことになる。

 大切な物かもしれない。

 頭に過った瞬間、身体が自然に動いた。ヒグマのストラップを拾って見ると紐の部分が擦り切れていた。かなりの古さを感じる。
「ストラップを落とした人はいるかな」
 普段とは違って低い声を心掛ける。集団は緩やかに足を止めた。前川さんは自分の持ち物を調べないで周囲に目を向けた。
「あれって邪魔だし。みんなはどう?」
「あるけど」
「あたしも落としてない」
「それ、わたしのだよ」
 太田さんはスマホを持ったまま、こちらに駆け寄る。わたしは黙ってストラップを差し出した。
「拾ってくれてありがとう。これ、小学校の友達から貰った大切な物だから」
「……もしかして、お菓子の景品だったりする?」
「ウソ、なんで知ってるの!?」
 急に思い出した。確かにわたしが集めていたクマシリーズの玩具だった。かなり汚れていて元の白クマには見えないんだけど。
 太田さんは首を傾げるようにしてわたしを見つめる。その傾きが深くなってゆく。隠し切れないと思って自ら野球帽の鍔を指で押し上げた。
「久しぶり。元気にしてた?」
「それ、わたしのセリフだよ。今までどうしてたの」
「なになに、知り合い」
「男子じゃないんだね」
「紹介してよ」
 面識のない女子に瞬く間に詰め寄られた。擦れ違った時は気付かなかった甘い匂いに包まれる。バニラとミントを合わせたような香りに鼻がむず痒くなった。
「あんた、真中だよね」
 前川さんが品定めするような目で言った。
「男っぽい格好して何してんのよ」
「なにって。みんなと同じで夜の大冒険を楽しんでいるって感じかな」
「まだ、そのキャラなんだね。こっちはカラオケの帰りなんだけど」
 知らない女子の憐れむような笑みがチクリと胸を刺す。太田さんはわたしから視線を逸らし、髪を弄り始めた。
 冷たい雰囲気に身体の自由を奪われる前に言葉を返した。
「えっと、カラオケは良いよね、いろいろ発散できて」
「あんたは中一の時と変わらないね。夢の中をふわふわしていて。学校にも来てないみたいだし」
 前川さんは呆れた顔で生欠伸を噛み殺す。
「在宅のフリースクールで勉強してるから心配しなくていいよ」
「誰も心配してないって。存在自体、忘れていたし」
 前川さんの言葉に三人の女子が、ひっどーい、と声を揃えて楽しそうに笑った。太田さんは従うように控え目に笑みを作る。わたしと視線が合うと花がしおれるように俯いた。
「まあ、あんまり夢ばかり見てないで真面目に生きなよ」
 興味を失った様子で前川さんが歩き出す。三人の女子も付いていく。太田さんはわたしを見て、ごめん、と口だけ動かして後を追い掛けた。
 残されたわたしは熱い息を吐いた。額に手を当てると汗で湿っていた。未だに五人の表情や仕草が頭の中で解釈を伴って膨らんでいく。破裂する前にがっくりと項垂れて思考を中断した。
「……なんか疲れたー」
 肩を落とした状態で家に引き返した。

第4話 小さな宇宙飛行士

 金曜日の夜は家から出られなかった。お父さんの帰りが遅くて先にわたしが力尽きた。気付けば朝で蹴っ飛ばされた掛け布団がベッドの下に落ちていた。八つ当たりをしたみたい。ごめんね、と背中を丸めて謝った。
 土曜日は家族みんなが夜更かしするので諦めた。窓の外の夜空を眺めてガマンする。流れ星を期待したけれど、おあずけ状態が二十分も続いたのでベッドに潜り込んで丸くなった。
 待望の日曜日の夜。わたしは野球帽を被り、トレーナーとズボンの格好で出掛けた。リュックは居残りで新しく財布が加わった。中身は千円札が二枚。あとは百円や十円の硬貨だけ。飲み物を自動販売機で買うという、豪遊を目論んでいたのだ。
 明日の月曜日に備えて家族は早くに眠りにつく。怪盗でなくても簡単に家を抜け出せる。わたしは夜の道に出て思いっきり、息を吸い込んだ。

 近所の公園を目指す。

 と言っても遊具はなくて広い運動場みたいなところ。街灯が周りを囲んでいて懐中電灯がいらないくらいに明るい。端っこの方にベンチがあって、近くのお米屋さんの前には自動販売機がある。公園で走り回った子供達がおこづかいの硬貨を握り締めて買う様子が目に浮かぶ。
 わたしは十四才で少しお姉さん。無心になってはしゃぎ回る年齢ではない。でも、喉は乾くと思うから。
 家々のスポットライトを軽やかに抜けると、クスノキに覆われた遊歩道を速足で突き進む。夜に飛び込めなかった間に溜まった力が全身に満ち溢れてくるようだった。
 遊歩道の先が膨らんでいる。公園はすぐそこ。自然に身体は走り出した。別の小さい音が聞こえてきて公園に目を向けた。

 宇宙飛行士がいる。

 銀色の物体が頭を丸ごと覆っていた。顔の部分には透明なカバーが付いていて白く光っている。手袋を嵌めて元気に走り回っていた。
 涼しい夜でも季節は夏。不思議な光景を見て胸がふわふわする。わたしも一緒に走りたくなって公園の中に飛び込んだ。
「そこの小さな宇宙飛行士さん、わたしも混ぜて」
「え、だれ?」
 驚かせたみたい。ビクッとして立ち止まると、こっちを見た。丸い目が可愛い。声は男の子だけど、女の子にも見える。
「初めまして。真中 優まなか ゆうだよ」
「えっと、お兄さん?」
「格好はそうなんだけど、お姉さんです」
 野球帽を脱いで頭を振った。乱れたところを手で撫で付ける。
「ほら、お姉さんでしょ」
「……たぶん」
「まあ、ボブだからね」
 無駄とは思いながら胸を張ってみる。ささやかな膨らみに男の子は気付かなかった。野球帽を被り直し、明日から頑張って牛乳を飲もうと思った。
「そんなことより、カッコイイね。宇宙飛行士みたいだよ」
「ホントに? おかしくない?」
「なんで? 星が出ている夜に、これより似合った格好なんてないよ」
「そうかな」
 男の子は照れ笑いで返す。走りたそうな手が前後に揺れた。
「ほら、よく見たらここの公園って月に見えない? さらさらした土だし、へこんだところはクレーターにそっくり。そう思ったら、なんか走り出したくなるよね」
 本当は自分が限界にきていた。ワクワクを超えて全身がムズムズする。わー、と子供のように声を上げて走り出す。男の子も叫んで追い掛けてきた。
 わたしはくるくると回りながら空を見上げる。両手を広げて星の瞬きを全て受け止めた。
 その時、誰かが咳き込む。わたしはハッとして男の子を見た。いつの間にか側には女性がいて男の子の背中を摩っている。
「あの、お母さんですか」
「和也と遊んでくれてありがとう」
「でも、咳が」
「嬉しくて少し無理したようだけど、大丈夫よ。紫外線がほとんどない夜だから本当はここまでしなくてもいいのに、心配性みたい」
 男の子の母親は手を休めずにわたしを見て微笑んでくれた。
「夜はいいですよね。昼みたいに全てをさらけ出さないところが奥深くて、神秘に満ちています」
「真中さんは中学生?」
「十四才です。今は在宅のフリースクールで勉強しています」
「ごめんなさい」
「あ、違いますよ。わたしは虐められて不登校になった訳ではなくて、もちろん深刻な病気でもなくて。頭の中の偏桃体が頑張り屋さんで、わたしを取り巻く世界がとても素敵に見えます。一般だとHSPって呼ばれているのかな」
 摩る手の動きが鈍くなる。母親は僅かに視線を下げて記憶を辿っているように見えた。あまり知られていないみたいなので、もう少し言葉を足した方が良いのかも。
「ハイリー・センシティブ・パーソンが本当の名前です。生まれつきで病気でもないから治療する方法もないそうです。お医者さんが言っていました。簡単に言えば個性ですね」
「とても素敵な個性だと思います」
「お母さん、もうだいじょうぶだよ」
 男の子は母親の方に顔を向けた。すぐにこちらに振り向いて頬をぷっくりと膨らませた。
「続きをやろうよ。ここは月なんだよね」
「そうだよ。ここは月で君は小さいけれど、立派な宇宙飛行士だね」
 男の子の笑顔の側で母親は自分の手を握り締める。心配そうな目を我が子に向けていた。
「もっと月らしい感じを出して、ゆっくり走ろう」
 五秒くらい掛けて一歩を踏み出す。大きな腕の振りと後ろに蹴り上げる足で全力疾走を表現した。真似した男の子は両手をふらふらさせた。
「これ、グラグラして難しい」
「宇宙飛行士は大変だよ。今から練習したら、きっと宇宙に行けるよ」
「太陽があるから。ぼく、光に当たれないし、ムリだよ……」
「だったら、太陽の光が届かない、宇宙の果てまで行ける宇宙飛行士になればいいんだよ。わたしは打ち上げられたロケットを見て、笑顔の万歳で見送るね」
 宇宙遊泳をするような動きで両手を挙げた。ばんざーい、と間延びした声を出す。
「お姉さん、ありがとう。ぼく、明日、引っ越すんだけど、向こうでもがんばるよ」
「そうなんだ。じゃあ、今のうちに」
 ばんざーい、と声を出した。男の子は同じように何度も両手を振り上げた。
「なんでそっちがするのよ」
「したかったから!」
 弾ける笑顔の側で母親は涙ぐんでいたけれど、口元が笑っていた。わたしは宇宙に向かって万歳をした。

 今日は宇宙を身近に感じる、壮大な夜になった。
 これからも素敵な個性と一緒に夜を共に歩いてゆく。

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