周司あきら・高井ゆと里「トランスジェンダー入門」批判(2) 美山みどり

第1章 トランスジェンダーとは?
第2章 性別移行
第3章 差別
第4章 医療と健康
第5章 法律
終りに

第2章 性別移行


このようにトランスジェンダーとしての自己を発見していくプロセスは、いわば「トランスジェンダーに『なる』プロセスとして理解でき、これを「精神的な性別移行(mental transisiton)と呼ぶ人もいます。当然のようにシスジェンダーとして扱われ、また自らのシスジェンダーとして生きようと努力し、そのように生きてきた自分から、トランスジェンダーとしての自己へと、変化・移行するのです。

p.42

ひととき「自分探し」という言葉が流行したことを皆さまもご記憶のことでしょう。自分が今いる環境に「完全に馴染んでいる」と感じる方は幸せな方であるのですが、「自分を見つめ」始めたらいくらでも疑問・疑念は湧いてきます。

今の自分はホントの自分じゃないのだろうか?

これは普遍的な問いではないでしょうか?「ホントの自分」に自己反省を通じて到達できればいいのですが、しかし「ホントの自分」にこだわり過ぎて迷路に入り、失敗をする人も実に多いのが現実の姿です。

「自分の性別が間違っている」という心理は、実はありふれた心理ではないか、と仮に考えてみるのもいいのかもしれません。「ジェンダー規範」に完全に適応している人なんて、おそらくいないのでは、とも思われます。誰しも「男らしくしなければ」「女らしくしなければ」というプレッシャーの下に、「それっぽく」演技しているものなのです。これを「自分に嘘をついている」と捉えるのは、思春期はともかくも、大人の態度ではありませんね。

こう仮定してみましょう。「誰もが、自分の性別は間違っている、と感じる可能性がある」と。私はわざと空論や逆説を弄そうとするのではないのです。しかし、「自分の性別は間違っている」という考えに憑りつかれ、それを人生の重大事として真剣に捉えてしまい、人生を棒に振っているようにしか見えない人が、トランス界隈には多いのですよ。ジェンダーに関する違和感は誰もが持つものであり、何ら特殊な感性でもないのです。また、そういうジェンダーの束縛から「トランスジェンダーになる」ことによって、それを超越できる、というのも妄想なのです。

言ってしまいますが、この本が主張する「トランスジェンダーになる」という表現は、実は性同一性障害当事者にとってはこれほど無縁な表現はありません。「男/女になる」それだけです。性同一性障害当事者は「トランスジェンダー」などになろうと思ったことなぞ一度もないのです。

未成年者への「グルーミング」

「自分の性別が間違っている」この断言は実はかなり危険なものです。主観的にはこの「気づき」がホントか自己欺瞞か区別ができないのですからね。実際、アメリカでは今「活動家による未成年者への性別移行の過剰な働きかけ(グルーミング)」が大きな社会問題になっています。

思春期の少女たちの、第二次性徴による身体の変化に戸惑い、生理を重荷と感じて嫌う気持ちは、誰しも理解するものでしょう。今までは対等と感じてきた男子たちと、身体能力的に張り合うことができなくなり、劣等感・屈辱感を持つ気持ちもわかります。さらには男性たちからの性的な視線に晒されて「バカにされている」と感じるのも自然ですし、また男性からの「性的な脅威」に対する警戒心も持たねばなりません。さらには「女だから」と社会的な立場で男性に譲らなければならない、と決めつけられれば、「女ってイヤだ」と感じるのはどこもおかしいことではないのです。

これほど「女になる」というのは少女にとって難しいことなのです。

こんな思春期の動揺のさ中にある少女に対して「女になるのが嫌なのは、あなたが実は男だからだ!」と断言する人が周囲に居たら?

いやこれ、実に危険なことではありませんか?そしてその自称「性別の専門家」は、「男になる」手段として、脱胸手術や男性ホルモンの使用を勧めてくるのです。これを真に受けて、手術やホルモンを安易に使ってしまい、身体に取り返しのつかない影響が出た少女たちがいます。「勘違いだった!」と言っても体は元には戻りません。

アメリカでは今、このようなトランス活動家による「グルーミング」に対する批判が集まり、トランス活動家と同調する医師・カウンセラーに対する訴訟が多発し、多くの州で「反トランス法」が制定される結果になっています。

「未成年者への性別適合手術は違法だ」とする法律がこの問題を受けて作られているのです。また性急な移行をためらう少女に、

子どもの第二次性徴そのものを遅らせる措置も、時代的にはかなり前から利用可能です。そうした医学的措置を、総称して「思春期ブロッカー」と呼びます。幼少期からトランスジェンダーとしての自己を主張し、出生時に登録された性別と異なる人生を歩み始めている子どもにとって、第二次性徴による身体の変化には絶望にも等しい苦悩が生じます。

p.66

と思春期ブロッカーの使用を勧めるのですが、それは「魔法の薬」ではありませんでした。精神的な影響や、骨粗しょう症などの重大な副作用があることが明らかになり、こちらも大きな社会問題になってきています。

未成年者に安易な性別移行を勧めることの弊害は、先行する諸国で次第に明らかになり、イギリスでも未成年者への性別移行を積極的に推し進めていた医療機関「タヴィストック・ジェンダー・クリニック」が批判を受けて閉鎖されました。こんな動きに日本が追随する必要はまったくありません。

言いかえると「誤解」によって性別移行に安易に踏み切ってしまう人というのは一定数いる、という事実に直面すべきなのです。取り返しがつくのならばいいのですが、「誤解」に気がついたときには心身に重大な影響がでてしまった後で、さらにそれを元に戻すための医療的措置で健康を損ね、それでも元には戻らない悲惨な目にあっている人の話も、いくつも耳にします。そういう人たちがアメリカの議会に直接訴え出てもいるのです。

これを自己責任、と呼ぶべきでしょうか?

「自分を見つめる」のはメリットばかりではないのです。誰しも「自分のジェンダー」に対して「自分にピッタリ」と思っているわけではありません。そちらが当たり前なのです。特に思春期の場合には、自分に対する不満から、極端な意見に魅かれることも珍しいことでもありません。

現実は、未だに性別移行医療は未知の部分が多い「実験的な医療」に過ぎないのです。自己判断の責任を取り切れない未成年者に勧められるものではありません。日本でも遠藤まめた氏が主催する「にじ~ず」などの活動がありますが、海外のグルーミングの顛末から懸念と批判の目が集まりつつあります。

私も幼少期から強い「性別違和」を抱えてきましたが、それでもやはり、このような状況をみるにつけ、未成年者への不可逆な性別移行医療はなされるべきではないという結論です。あまりに実験的に過ぎ、また誤解して受ける少年少女が多すぎる、という理由です。

オートガイネフィリア

この本がまったく触れようとしない話題がいくつかあります。

・いわゆる「女装家」
・オートガイネフィリア(自己女性化愛好症、AG, AGPと略されます)

いわゆる「ノンバイナリー」「Xジェンダー」についてはいつも補論のように参照するにも関わらず、MtF(Male to Female) に関しては特に切っても切れない関係にあるこの2つのカテゴリーについては、この本は意図的に無視しています。

なぜって?都合が悪いから。

そう思われても仕方ありません。「性別移行」の「動機」には、この本が描くような「きれい」な「自己探求」の動機ばかりではないのです。この本が、そんな暗部についてまったく触れずに済まそうとした「きれいごと」の本だということ、さらに、この「オートガイネフィリア」の問題が、「トランスジェンダー」が引き起こすさまざまの問題の中心にある、ということをしっかりと皆さまにご理解いただきたいのです。

大事なことなので念押ししておきますが、自分の性別をどう理解するかというジェンダーアイデンティティと、自分がどんな性別の人に惹かれるか(あるいは惹かれないか)という性的指向は別な話です。当然ながら、トランスの人には異性愛者(ヘテロセクシュアル)だけでなく同性愛者(ゲイやレズビアン)や無性愛者(Aセクシュアル)の人もいます。

p.45

もちろんこの表現、間違っていません。しかし、現実の「トランスジェンダー」を見ると、特に MtF の場合に、女性と結婚して夫婦生活をそのまま続けながら、夫が女装してトランス活動家をしている…というのを見て、「何かなあ」という気持ちを抱くことはありませんか?
配偶者さんが一生懸命「理解しよう」と無理に無理を重ねているのに、女装の「トランスジェンダー」さんは勝手気ままに「男の特権」そのままで、配偶者さんに家事をすべて押し付けたまま…..

なるほど、トランスジェンダーでも「レズビアン」なのだそうですよ。

いや、本当に性同一性障害の方でも、「女性が好き」という方はいないわけでもないのです。私は男性が好きですが、いわゆる「Aセクシュアル」の部類に入るくらいに性欲は薄いのですが、特例法当時に結婚しておられた方も周囲にいましたし「男と思えないから結婚した」と配偶者さんが認めるくらいに「レズビアン指向」のカップルというのも成立していたことも目にはしています。

しかし、そういうのと、このような「妻を犠牲にして、夫がトランスを謳歌する」のとは、違うと感じませんか?

これをしっかりと説明できる概念が、オートガイネフィリアです。オートガイネフィリアとは、

男性が、自身を女性だと想像すること、または、女装行為自体、女装中に「女性」として男性と肉体関係を持つこと、そして、これらのような各種「女性化」によって性的興奮する性的嗜好。

WIkipedia

です。女性の場合には数は少ないですが「オートアンドロフィリア」と呼ばれます。言いかえると「女性化」の動機が、男性の性欲に依存している、ということなのです。ですから、一番簡単な区別をするのには

女性が好きかどうか

を見ればほとんどの場合、判断ができるとまで思います。本書でも

第二に、トランスジェンダーの人には異性愛者ではない人が多いからです。米国の調査によれば、トランスジェンダー全体のうち異性愛者の割合はたったの15%でした。はっきりと異性愛者である人の方がマイノリティなのです!

p.176

と本書の著者たちも認めています。実はこれはオートガイネフィリアが「トランスジェンダー」の大部分を占めていることを示しています。「女装はしていても、性行動は男性」というのは、トランスジェンダーでは珍しいことでも何でもないのです。

その結果、「女装して性犯罪をする」人たちが存在する、という事実を隠すことはできません。活動家はこういう人たちを「トランスジェンダーではない」と切り捨てますが、現実には定義からすれば「トランスジェンダー」な人が含まれることは否定できないし、そもそも「トランスジェンダー」を区別することもできません。

トランスジェンダーであっても、女性に対する性加害の可能性はある

というのを、ここでしっかり確認しておく必要があるのです。これは決して偶然的に「性犯罪者が含まれることもある」という話ではなくて、オートガイネフィリアの性質の延長として「女性スペースに入りたがる」などの可能性を否定できないということでもあるのですよ。

私は極端な話、

すべての男性は、女装趣味にハマる可能性がある

とまで見ています。もちろん、女装趣味にハマる男性の数がそう多くないのは、やはり「ジョーシキがある」「妻子が枷になっている」「似合わなくて恥ずかしい」といった理由なのだと思うのです。そのくらいに、オートガイネフィリアという現象は、男性に一般的なものだとも思うのです。体育会系サークルの大学生が、嬉々として「オカマバー」を学園祭に出店するのを見れば、まさしくそうではありませんか?

もちろん、女装クラブなどでは「女装は紳士の娯楽」として、しっかりと「娯楽」であり「男でなければ女装を楽しめない」とケジメを持たれている方も数多く存在します。こういう方は、公衆トイレを使われる際でも、女装のままで男子トイレを堂々と使われます。このケジメがあるかぎり、女装も「紳士の娯楽」として、批判されるべきものではないと考えます。

しかし、この女装趣味が昂じて「女性としての自分」に恋し、その恋情を男性に対して転移して間接的に「自分自身に欲情する」ようなことに慣れてしまったら?
いや女装者を性的な対象とする男性もいるのです。よく「トラニーチェイサー」と呼びますが、オートガイネフィリアがオトコと付き合うようになると、それは「男性の女性に対する性欲」を屈折させて自分に向けているわけですから、それはけして「男性同性愛」と呼べるものでもないのです。

それでも男と付きあうことで「自分は女だ」と誤解するようになります。だから自分を「バイセクシュアルのトランス女性」とか名乗るようになるのですね。これを活動家たちは煽るわけです。「トランス女性の権利を守ろう」と。

これは実は女装家への「加害」の部類ではありませんか? 夜の世界の方が、退屈な「昼」よりずっと楽しいのです。これを肯定し、かつ「政治的な正当性」も活動家が与えてくれるのです!

こうして善良な女装者が、オートガイネフィリアの深みにハマっていくのです。昼の職業もつまらないです。ニューハーフや女装バーの方がずっと楽しい。また「女装で働けたら楽しい」と思って、職場に要求するのですが、女性たちからは総スカンを喰らいます。職場は「欲情」する場ではありませんから、仕事での失敗も増えるしょう。また家庭でも妻がこんな気持ちを理解するわけではありませんし、夜遊びが過ぎれば見放されることにもなります。

しかし「女性になる」ために、女性ホルモンを使ったら?あるいは性別適合手術を受けたら?

これが解決にならないことに、このオートガイネフィリアの泥沼の一番怖い部分があるのです。女性ホルモンを使うと、男性の性欲が減退します。そうすると、女装が楽しくなくなるのですね。男性の性欲に女装のエネルギーがあるわけすから、そのエネルギーがなくなれば「なんてバカなことしていたんだ!」と気づき、キャリアや家庭に対する傷が浅ければ、勇気を持って引き返すのがいいのです。

しかし「自分は女!」と思い詰めて退路がなくなっていたら?

しかし性別適合手術が解決にはならないのです。その状態で手術を受けて、女性に適応しようとしても、逆方向の「性同一性障害」のような状況に落ち込むだけなのです。「なんで手術をしてしまったのか?」と身体違和に悩まされて後悔するばかりになるのです。さらには見た目の「パス度」の問題もありますし、女性の生活は思ったように「楽しい」ものでも何でもありません。男性と比べれば窮屈で、社会的には不利益を被ることも大きいわけです。手術した後でさえ、後悔して「男に戻った」方もかなりおられるようです。

ですから「女性が好き」な方は、自分が「トランスレズビアン」ではなくて、「オートガイネフィリア」ではないか、と疑ってください。手術までして女湯に入ってオトコ目線での女体レポートを恥ずかしくもなくYouTubeに投稿して非難を浴びた方も、このような「性別適合手術を受けたオートガイネフィリア」なのでしょう。

こういう方のために性別適合手術も、性別移行医療もあるわけではありません。専門医とされる方々の「診断」が、いかにそれを受けた方を不幸にするケースがあるのかを、しっかりと反省して頂きたいと考えています。

第3章 差別


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