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ものかきのきもち

SNSのプロフィールに、未だに何を書いたらいいのか分からぬままでいます。今のところ、肩書きは一応「文筆家」としています。でもその響きはかなり「シュッと」していて、鉛筆をなめなめ、原稿用紙に向かっているような気配があるので、私は自ら名乗っておきながら、心のどこかで緊張しているようなのです。

「文章を書いたりしてるんです」
「へー、どんなのを書くの」
「小説のようなものとか」
「そしたら、芥川賞を目指しているんですね」

以前勤めていた会社で、そんな会話になったことがあります。私はその後なんと言ったかあまり覚えておらず、でもおそらく「いやァ」などと言って首をひねって、へらへらしていたのだと思います。私は、小説家になりたいのかなあ。他人事みたいに、そう思いました。
小説家になりたいとか、ライターになりたいとか、文章で食っていきたいとか、そういう人たちはこの世にごまんといて、みんなそれぞれにしのぎを削っている。私はずっと言葉を書いてきたけれど、それらのフレーズを口にしたことはあったろうか。私は何になりたかったんだっけ、なんのために、書いているんだっけ。

文章を書くということは、きっと特別なことではありません。「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すこと。「ごめんね」と言われたら「まあ、気にするなよ」と返すこと。複雑な物事や気持ちを伝えるために、「あなたの前髪は嫌いだけど、こうやって一緒に焼きうどんを食べるのは好き」のように話すということ。それらを口頭で直接伝えられたらそれで済むし、それが無理そうなら筆と紙を用意して、そこに書いておくということ。その延長線上に、プロフィールに「文筆家」と書いている私がいるような気がするのです。

私は生まれつき、言葉を話すことがあまり上手ではありません。吃音という症状を持っていて、でも、日常生活で気づかれることはあまりありません。言いにくい言葉を避けたり、言葉が見つからないふりをしながら、なんとかやり過ごしているからです。私にとって話すということは、ホットケーキを食べたいけど、牛乳もバターも小麦粉もないのでスーパーへ買い出しに行くところから取り組まねばならない、というような感じで、いくつもの工程とエネルギーが必要です。でも、実は冷蔵庫の中には残りご飯があって、おにぎりだったらすぐにつくれる。そうして、私は文章を書くようになったのだと思います。すぐに手の届くところにある、自分にとって軽やかな流れがつきやすいところ。それが言葉を書くことでした。おにぎりがホットケーキの代わりになるかは分かりません。でもホットケーキもおにぎりも、おいしいのです。

本当は、れっきとした「小説家」や「ライター」になれたらいいのかもしれない。有名になって、ちやほやされたり、お金持ちになりたい。そう思うこともあります。そりゃあ、そうなのです。だってちやほやされたりお金がたくさんあったら、嬉しいですもの。
だけどそれ以前に、私にとって書くということが、口からうまく言葉が出てこない苦しみを和らげるものであること。おにぎりを握って、空腹を満たす手段であること。そのことだけはずっと、胸の中心に置いておきたいと思っています。

何者になりたいのかよく分からないままですが、だからこそ自分なりの見せ方で、作品を作っていきたい。これから、どうしていこうかな。やっぱり「文筆家」がいいかもしれない。でも、そうじゃなくても、いいのかもしれない。ものかきの気持ちは、今、そんな感じです。

今まで創作を通じて出会ってくださった方々、言葉を読んで、言葉を返してくださったみなさん、本当にありがとうございます。そのやり取りの一つ一つが私の救いでした。これからも、もし私の書いた言葉を気に入ってくださったら、その想いを放り返してくださるととても嬉しいです。私にとっては、毎朝「おはよう」と手を触り合うような、大げさでない、大切な瞬間です。

年が明けてすでに随分と日が経ちましたが、今年も一年どうぞ、よろしくお願いします。お元気でいて下さい。

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