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毒親を切れない娘の苦悩

私はいわゆる毒親のもとで育ちました。

小1で父親が他界し、残った母親は元々精神的に不安定な人でした。父が亡くなったとき、お腹には妹がいました。
無職でずっと家にいる母は、当たり前にネグレクト。さらに、2畳くらいのスペースに祖母と3姉妹の4人で数ヶ月軟禁されたこともあるし、顔を踏みつけられて、鈍器で殴られて頭部から出血したこともあります。物音を立てたら怒られました。毎日罵声を浴びせられたり、夜中に奇声を聞きながら寝たりしていました。肉体的にも精神的にも虐待を受けていました。

生きていて1番緊張する瞬間は、学校から帰って家のドアを開けるとき。
部屋が真っ暗だったら、母は今日も不機嫌な合図。カーテンを閉め切って寝ているからです。
でも時々、普通に話しかけてくれることがありました。その時間は本当にしあわせで。一緒にテレビを観て、笑って。それだけですが、この時間が一生続けばいいのに、と願いました。
当時の日記には、毎日必ず「お母さんが元気になりますように」「お母さんと楽しく話ができますように」と書かれています。

もちろん自分の人生に関することも、私には選ぶ権利がありません。学校も服装も髪型も親に決められていました。

大学入学で親元を離れて、自分の稼いだお金で好きな服装や髪型ができるようになり、やっと「自分の人生を生きている」と思えるようになりました。母とはメールで手続き関係の業務連絡をするだけです。親はいていないようなものでしたが、生活には何の支障もなく、経済的に自立さえすれば、親は別に必要ない、と思いました。
私が幸せになるには、親から離れる必要があるのだろうなと実感しました。

ところが昨日、メールで口論になりました。
私の人生に関わることだったので、私も負けるわけにはいきませんでした。
ここで引いたら終わりだと思いました。
私のこれまでの人生最大の決意を、22にもなって、親のせいで潰されてはダメだと思いました。
これまで思っても言っていなかったことを、沢山言ってしまいました。
母は、画面の外で泣いていたと思います。

そのときは、ただただこの厄介な母親に腹が立って、食べ物も喉を通らないほどでした。なぜこんな人が子どもを3人も産んだのだろう。なぜ私はこんな家に生まれてしまったのだろうと。

でも、今日、その口論に勝ってしまった。

勝てたのではなくて、勝ってしまった、と思いました。

急に「申し訳なさ」で苦しくなって、涙が止まらなくなりました。
嬉しいけど嬉しくない。
私の望み通りになった裏で、母は絶対に深く傷ついたから。娘にそんなことを言われて、絶望したに違いないから。

私は自由奔放な姉とは違い、何だかんだ言うことを聞いてきました。いつも家庭内では調和を保つため、奔走していました。姉のせいで不機嫌になった母のご機嫌取りをするのは、決まって私の役割でした。

母が義父母と喧嘩し、実家に戻ったとき、子ども2人を連れて行こうとしましたが、おばあちゃん子だった姉だけは頑なに拒否しました。当時4歳だった私は、「これはついて行かないといけないやつだ」と子どもながらに思い、母と手を繋いで家を出ました。
母は実家でも自分の母親に暴言を吐いたり、物が飛んだり、それはもう悲惨な日々でした。それでも私は母に笑ってほしくて、いつも頑張っていました。
私は3姉妹の中でも、特に母との結びつきが強い子どもなのです。

その私まで、母から離れてしまったら、もう母には妹しかいません。小さなアパートの狭い部屋で、子どもに愛想を尽かされた母は、どんな孤独を感じるのだろうと思うと、私のしたことは大罪である気がしてなりません。
きっと母は、自分が他の母親並みのことを何もできていないことを、誰よりもわかっています。
それを、これまで黙っていた娘から突然突きつけられたら……。
「自分の思い通りに生きることが罪」
そんな風に思います。

お母さんもお母さんなりに私を守りたいんだろうな、と思うのです。
彼女は自分の人生をとても憎んでいるから、私を自分と同じような目に遭わせてはいけない、という思いがあまりにも強くて。
子の守り方が歪んでいるのです。
何本も道はあるのに、1本の道の外は闇に包まれていると思っているようです。

元々精神的に不安定なのに、20歳で1人目を出産し、3人目を妊娠中に旦那がいなくなり、そこから一人で3人も育てなければいけなかった。頼れる親族もいない。そういった状況の中で、「母親」をしていたのは紛れもない事実です。育てたとは言えないけれど。
娘ながら、母の人生は可哀想な同情に値する人生だと思います。
このような家に生まれてしまった以上、母を守るのは私の使命なのではないか、とさえ思います。

体調が不安定な中、家に飾りつけをして、花束を買って誕生日を祝ってくれたこと。時々連れて行ってくれるショッピングモールが最高の楽しみだったこと。毎月図書館に連れて行って、読み聞かせをしてくれたこと。

やさしい思い出が沢山思い出されるのです。

周りの子のようにお金をかけてもらったことはないけど、我が家なりのしあわせな時間はあったなぁ。トラウマになるような幼少期の中でも、忘れたくない瞬間も沢山あるなぁ。

そういうわけで、私はどうしても母を切り捨てることができません。

でも、もう私を解放してほしい、自由に生きさせてほしいとも強く思うのです。私が深刻に考えることではないし、母のお世話は本当は私の役目ではないとも思います。

他人は「もういい年なんだから放っておいたらいいよ」って簡単に言います。でも、そんな簡単なことじゃないのです。縁を切るのは簡単です。でも、もう一生会わないと決めても、それで幸せになれても、心の奥深くが溶岩みたいになって、“本当に幸せ”にはなれない気がしているのです。

あんなに酷いことをされたのに、私は働いて貯金ができたら、お母さんをいいホテルに泊まらせてあげたいな、って思ったりするのです。奇妙ですね。

なんでなんだろう。もう切り捨てたっていいのに。

やっぱり10ヶ月もへその緒を通して繋がっていた絆は、何にも代え難いものなのだなと。

戦地に行った人が声を聞きたいって言うの、昔からお父さんじゃなくてお母さんなの、なぜでしょうね。
毎年ドラフトのときにやっている番組でも、基本お母さんありがとう、じゃないですか。
絶叫系で叫ぶとき、「お父さーーーん!」って言う人はいなくて、大体「お母さーーーん!(泣)」ですよね。なぜでしょう。

私は明日、成人式ぶりに母に会います。

いつまで「お母さんの言うことを聞く」必要があると思いますか。


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