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私は子育てによる「家庭でのたかみな化」を恐れている

たかみなといえばAKB初代総監督の高橋みなみのことである。

総監督とは、大所帯のグループをとりまとめる存在で、メンバーたちのケアをしたり、意見を代表したりする役職のこと。

たかみなはしっかり者で、メンタルが強くて、なにごとにも動じなくて、愛情と責任感がある人というイメージだ。

そんなたかみなが、昔インタビューかなにかでこんなことを言っていた。

「総監督という役割をやっていると、可愛いところを見せられなくなる。しっかりしなきゃいけないから。だから私のファンには可愛いアイドルっぽいところを見てもらえない」

一言一句合っているかどうかは忘れたけどだいたいこんな感じのことだったように思う。

要は「可愛い」と「しっかり」は共存できないという話。

聞いたときは、ふーんたかみなは大変だなぁと呑気に思っただけだったが、自分が結婚というものをしてみてこの言葉を思い出した。

「もし今後子どもを産んだとしたら、私は家庭で子どもを監督する"たかみなの役割"を負わなければならない…? そうしたら、もう"可愛い妻"ではいられなくなるのでは…?」

なにも自分の顔が可愛いとか、夫にとって私はアイドル的存在だとかそういう話をしているのではない。

ひとつは、夫婦二人組の、一対一の関係では良しとされてきた態度や、甘えや、なあなあにしても問題なかったことがらが、
子どもという「監督せざるを得ない」存在ができた途端に許されなくなるんじゃないか、という不安。

たとえば二人とも仕事が立て込んでいたために一週間家にルンバをかけないでいて、床に髪の毛やらなんやらが溜まってきたとする。

夫婦二人なら、「まあ週末やればいっか!」でおしまい。疲れてるもんね、いいよいいよ。
床掃除ができていないことよりも、二人でイライラせずになごやかに暮らすことを優先できる。

ところが、もし家にハイハイする子供がいたとしたら、誤って床の髪の毛やゴミを口に入れてしまうリスクがある。

そこで、家庭のたかみなこと私が、Yogiboに寝っ転がっている夫を叩き起こし、「ホラ!掃除するよ!」と声かけする。正直だりーなという顔で起きてきた夫と掃除をする。何その顔。私も疲れてんのに。イライラ。

そこには「お互い疲れてるもんね、週末でいいよね!」と余裕を持って優しく接する妻はいない。半ギレでルンバのローラーに絡まった髪の毛を取り除くすっぴんの女がいるのだろう。

こんなふうに、子供が生まれたらもっとしっかりして、いろいろ仕切ってちゃんとして、言うべきことはバシッと伝えて、あまり人には見せられないような険しい表情も時に見せながら、家庭の総監督にならなきゃいけなくなるんじゃないか。

そうなったら、お互いのちょっと抜けてるところを「かわいいね」「おもしろいね」と愛でることはできなくなるのでは。たかみながファンに可愛いところを見せられなくなったみたいに。お互いの抜けてる部分を許せなくなる。だって「抜けてる」せいで子供が死んだらどうするんだ。

私が子どもを産むのを躊躇しているのは、いろんな理由があるけれど、この「家庭のたかみな化」への恐怖も大きいのだと思う。

ただでさえ私は物言いがハッキリしているし、地でたかみなっぽい要素があるので、子どもを世話するようになったら、自分にわずかに残った可愛げや穏やかさみたいなものが全部消し飛ぶような気がしているのだ。

そんなの、しっかり者でバシッと家庭を仕切って、髪を振り乱しながら頑張る姿にも、夫が「かわいさ」を感じて、愛してくれれば良い話なんだけど、

日本の女性が「かわいい」の枠に入れてもらうためには様々な条件をクリアして狭い定義に当てはまらなければならない。しっかり者で物事をはっきり言って目的のために髪を振り乱す女は、この国では「かわいい」枠から外れる。

うちの夫はとても優しいし、女性やマイノリティの置かれる現状にかなり問題意識を持っていて、その表明として結婚時に名字を私の姓にすると言ってくれた。実際そうした。
家事だって掃除だってしっかりシェアしていて、いつもとても感謝している。

そんな夫でも、私がハッキリめにものを言ったり、なにかを主張したりすると「あんまり怒らないで」と言う。夫が全く怒らない人なのもあるけれど、やはり妻にはたかみな的態度よりも、穏やかな物言いでいて欲しいのだろうと思う。

でももし子どもができたら? つわりやなんかから始まって、授乳や寝かしつけ、保活に送迎、病気の対応などなどが怒涛のように押し寄せるとして、絶対に穏やかで優しくてかわいらしい妻兼母でいられる自信はない。全然四六時中キレ散らかすと思う。
(いやたかみながキレ散らかしてたわけではないと思うけど、ずっとかわいらしく穏やかではいられなくなるという例え話である)

そしてたかみな化した私と、夫の関係性が変わってしまう不安もある。

夫は私が家庭の総監督と化しても、毎日頑張ってくれているねと尊重してくれるだろう。
でもそれは「たかみな偉いな!かっこいいな!ありがとう!」という同志へのリスペクトの念であって、夫婦2人で暮らしていたときの、かわいいね、おもしろいね、という感情とはきっと違うのだろう。

どっちが良いとか悪いとかでなく、後者の関係性のつもりで一緒になったのに、前者の関係性に変わってからも楽しくやっていけるのか自信がないのである。


恋愛と結婚は違うとよく言うが、結婚と子育ても全く違う。結婚に最高に向いている相性でも、一緒に子どもを育てる親になったら全く合わなくなったという話は数え切れないほど聞く。

それなのに、普通の夫婦なら結婚のあとには子育てへの道が続いていて、そうしないのはおかしいと言われる。令和になってもまだまだ言われる。

でも、デュオのつもりで組んだグループに新メンバーを入れてトリオにしたとして、上手くいくとは限らないだろう。

我が家はデュオが楽しかったから集まった2人なので、ここにひとり新人メンバーを加えて私が総監督になった場合のバランスが全くわからないのだ。そしてどんな新メンバーなのかは呼んでみないとわからないのでなおさらだ。


「なにも総監督化するのは妻だけじゃなくていいんじゃない?夫も当事者意識を持てばいい話でしょう」とも思う。実際夫はかなり頑張ってくれそうでもある。

だけど、およそ1年間体を削って子供を産むのは私なのだ。どうしたって先に総監督的立場になるのは私になるだろう。そこで一度変わった関係性がもとに戻るのかもわからないし、なにより子供を産んだら不可逆だ。関係性が変わろうがどうなろうが、親を辞めることはできない。


そんなことを考えて、やっぱり親になることに踏み切れないでいる。

どちらにせよ覚悟の問題なんだろうけど、子どもの親になって関係性が変わっても踏ん張る覚悟と、子どもを持たなくても後悔しない覚悟。どちらが私たちにとって重いのだろうと考える。今日も答えは出ない。





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