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孤独については、わたしもちょっと知っている #創作大賞感想

「#なんのはなしですか」でお馴染みの、コニシ木の子さんのこの作品。

初めて読んだときに、感想文を書きたいと思いました。それから何度かトライしたんです。でも、毎日のわたしの持ち時間内に仕上げられる自信がありませんでした。毎日投稿をしている身としては、毎日なにかしら記事を出さないといけない切実な事情があって。

でも、今日こそはという気概で書きます。見てて、コニシ木の子さん。

四半世紀のつきあいのある男3人組。ポップとチャンと「私」。

ある休日に、3人が集まった。そして、チャンが唐突に語りだす、孤独を説明した言葉

「お前らみたいに家族がいない俺は最近毎日何をしたら良いのか考えている。だけど何も浮かばないし、何も出来ない。一人で遊びにも行くけど、その時は楽しい気持ちでいるがそれが後に続かない。例えばお前らが家族といて俺と会った場合、どのタイミングで俺は帰ったりすれば良いかとか、何をしようとしているとか、人としてそういうことが分からなくなっているんだ」
(中略)
「どうやって、お前らを誘って良いかも分からないし、それを相談する人もいない。毎日、何かしているフリだけだ。よく友達が『たまには一人になりたい』と俺を見て俺と話している時に言う。『羨ましいな』と。だけど、常に一人だとその答えは『キツい』なんだ。お前らは家族の形が変化している時間を感じたり、その時間を味わったりしているから時間に濃淡がつく。だから一人になりたいんだ。俺は俺の生活で何もこの先変化が起きないし起こせない」

あ、それわかる。…気がする。

わたしにも身に覚えのある感覚だった。

いまは夫と子どもが2人いて、がちゃがちゃとした日々暮らしている。けれど、いまから10年くらい前のわたしの生活は、しーんと静まりかえっていた。チャンと同じように。

まだ夫と出会う前で、わたしは独身だった。これから先もずっと、一人で生きていくことになりそうな予感がしていた。

時々一緒に過ごしてくれる人がいても、それはただの一時的なものに過ぎなかった。いつかその時間には終わりがきて、わたしはまた元の静謐のなかに帰る。

友人はどんどん結婚していき、いつまでも自由の身だったわたしは、もっともっと自由になっていった。行き過ぎた自由は、とても不自由だった

幸い、といっていいのいかわからないけれど、平日は仕事に忙殺されて、時間があっという間に過ぎていった。でも、休日になったら、何をしたらいいのかわからない。というより、何をしても心から楽しめない。そのうちに、「わたしの人生、これでいいのか」と考え始める。ぐるぐるとした思考の先に、答えはない。

お金も時間も、自分のためだけに使えていいね

結婚して子どものいる友人にそう言われて、複雑な気持ちになった。友人に悪意はない。誰も悪くない。

チャン、わたしアナタの気持ちがめっちゃわかる。

「変化しない時間」は濁っていく。堰き止められた水のように。少なくともわたしにはそうだった。

チャンの静かな叫びに、ポップが繰り出す話が意表を突く。話の接続と方向性が読めないまま、パグを飼いたいという話が始まる。パグ?わたしも飼いたい。

今度は、ポップが「私」に話を振る。飼っているリクガメの話をしろと。どれくらいの大きさなんだろうと想像しながらわたしも聞く。

確かにペットを飼うことで、「変化する時間」を生きることができるようになる。わたしも独身時代にチワワを飼っていたときがあった。言葉は交わせなくても、心が通うようになる。怒ったり、笑ったり、慈しんだり。心をやりとりする時間が生まれる。孤独を癒す一つの方法になるかもしれない。

でも、ポップが言いたかったことは、そういうことじゃないらしい

「俺もパグを飼えない。お前もパグを飼えない。さて飼えるのは誰だ?」
別に、この質問に答えなんていらないだろう。
「俺だな」
チャンはヘルメットをかぶりながら答え、少しだけ笑顔になっていた。

ここまで読んで、わたしはまた自分の過去を思い出していた。

孤独の日々を抜けたわたしを待ち受けていたのは、思いもよらない事実だった。

それは、家族ができればすべて解決、めでたしめでたしというわけではないってことだ。

もちろん変化の時間を生きる中で、時間に濃淡ができる。来る日も来る日も、「幸せってなんだろう」などと考えなくて済むようになった。人生を共に生きてくれる人がいるというのは、とてつもなく心強くて、とてつもなく安心できる。

でも、自分を取り巻く外的環境によってだけでは満たされない領域がある

幸せを一つの円として、半分がわたしを取り巻く人間関係や環境によって決まるとしたら、残りの半分は、自分自身の内面によって形づくられるのだとわたしは思っている。どんなにお金があっても、愛すべき家族を得ても、それだけで最後の半円を埋めることはできない。

わたしにとっての問題は、仕事だった。アメリカに渡って仕事を辞め、無職になったわたしは、自分が何者かというアイデンティティを失った。いや、妻であり、母であることが新しいアイデンティティになったわけだけど、それだけでは満たされない自分がいた。少しずつわたしの世界が狭まっていくような感覚。

なにをして生きていくのか。妻として、母としてではなくて、わたしとしての人生をどう生きるのか

これだけは、愛する家族がいてもいなくても、わたしが自分でなんとかするしかないんだ。だって自分がなにに価値を感じて、なにをすれば満たされるのかは、わたしにしかわからないから。夫も子どもたちも、わたしを応援することはできても、わたしの代わりにこの問いに答えることはできない。自分でやるしかない。

孤独に苛まれてるとき、その孤独から抜け出すことに意識が集中するものだ。過去のわたしもそうだった。そこを乗り越えないと明るい未来はないような気さえして、明けても暮れても、どうすればいいのかずっと考えていた。

でも、実は、それは人生の大きな課題の、ほんの一部に過ぎない。結婚したり、家族ができたからといって、それで人生が安泰なわけではないんだ。言葉にしたら当たり前に聞こえるけれど。

ポップが言いたかったことも、そういうことではないかと思う。

みんな、まんまるとは満たされない円を、なんとか満たそうとして生きているんだぜってこと。

家族をもって「変化する時間」を生きているポップにも、満たされない何かがきっとある。パグを飼えないことだけじゃなくて。「私」だってきっとそうなんじゃないかな。これを書いているわたしもそう。

孤独の対応なんて誰にもわからない。わたしにもわからない。でも、チャンには、ポップと「私」がいて良かったと思うよ。いい友達じゃない。パグ飼いなよ。

なんのはなしですか。


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