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「1984年」(ジョージ・オーウェル)、それは私に幸福の形を問う

 最近、少し違和感を感じることがあるのだ。


 私は1984年生まれである。ということは、改めて考えてみると、2020年現在、私は36歳ということになる。知らぬ間に随分と歳を取ったものである。実年齢よりも1.5倍ほど多く歳を取っているような気さえしてくる。鏡の中の自分も随分と若々しく見える。まあ、健康にはそれなりに気を使ってきたつもりだが。
それに加えて、どうも私には2000年よりも前の記憶が無いようである。2000年といえば私が16歳の頃であるはずだから、それ以前の記憶が少しはあっても良いはずである。いくら私の幼少期に大事件と呼べる出来事がほとんど起こらなかったにしても、全く覚えていないというのはいささか不可解ではあるまいか。
 いやいや、違う、違う。不可解なのはこんなことを考えてしまう私自身の方なのだ。パスポートや保険証、運転免許証など、ありとあらゆる身分証明書に私が1984年1月19日生まれであるとはっきりと書かれている。昔から私を知る家族や友人も、口を揃えて私は1984年生まれだと言っている。これが私の生年月日であることに一切の疑いを持つ余地はないのだ。いや、この表現では生ぬるい。私はこの事実を決して疑ってはいけないのだ。それは“偉大な兄弟(ビッグブラザー)”の意思に反する考察だからだ。そもそも、この“疑う”という言葉自体、もう何年も前に辞書から消えた言葉だった。そろそろ“新語法(ニュースピーク)”に慣れていかなければ。
 私は偉大な兄弟を愛している。その彼の世界に疑問を抱くなど、私はなんと愚かな人間なのだろうか。私はわたし自身に勝利しなければならない。偉大な兄弟に疑念を抱く私という存在に。

 さて、事実とは何だろうか。学校で習ったりテレビ等で見聞きしたりし、周りの人々みんなが共通した認識を持っている対象は、一般的に事実とみなされる。しかし、果たして本当にそれらを事実と呼ぶことができるだろうか。そが事実であると証明するには一体どうすればいいのだろうか。また、個人の体験をもとにした記憶というのは、往々にしてそれを思考、ないし、口述、または記述する際に用いる語彙に非常に左右されるものである。りんごという単語なくして、りんごを食べたという記憶は、事実として認められるだろうか。

 「1984年」の中で“事実”は、非常にもろく、かつ、非常に頑丈なものとして描かれる。
 主人公のウィンストン・スミスは、“真理省”で働いている。ここでの彼の仕事は、一言で言えば、歴史の改ざんである。過去に報道された記事の内容を、現在の国の方針に合わせて改変していくのである。例えば、彼の住む国、“エアストリップ1号”は昨日まではA国と戦争をしていた。しかし、今日になって、エアストリップ1号は、A国ではなく、B国と長年に渡って戦争をしていたということが事実になる。偉大な兄弟の意思によって事実が改変され、すべての記録が書き換えられるのである。ウィンストンは、この作業の一端を担っているのだ。そして、その情報を見聞きする国民はそのことについて全く疑問を抱かない。昨日までA国に対して行っていたデモを、今日は当たり前のようにB国に対して行うようになる。そして、A国に対して何年もやってきたはずのデモは、B国に対してのものだったと信じ込んでさえいるのだ。
 このように、この世界における事実はもろく、かつ、頑丈である。この世界では、事実は偉大な兄弟の意思に従って簡単に改変される。そして、一度変わってしまえば、誰からも疑問を抱かれることの無い、絶対的な事実となるのである。
 また、真理省の他の部署では、辞書の編纂も行われている。ここで作成される辞書は、版を重ねるごとに記述される単語がどんどん減っていく。この語彙の減った言語はニュースピークと呼ばれ、時がたつとともにあらゆる単語が簡素化されていく予定だ(例えば、いかなる動詞の場合も過去と過去分詞は同一であり、-edという語尾だけを付け加えればよくなる。stealの過去はstealedでありthinkの過去はthinkedになる)。簡略化された単語だけでは、複雑な思考を構成することは出来ない。思考の対象を明確化することができず、それに対して行動を起こすことも困難になっていく。仮に、殺人犯、麻薬所持者、性犯罪者、窃盗犯。こういった犯罪者たちをまとめてbad guysと呼ぶとすると、それぞれの犯罪者に対して有効な防犯策を講じることができるだろうか。警察は、ただ単に、“悪い奴ら”に対してどう対処するべきか、という漠然とした話しかできず、複雑な作戦を練ることが困難になることは想像に難くないのではないだろうか。このように、偉大な兄弟は国民から言葉を奪うことによって、複雑な思考と、そこから生まれる偉大な兄弟に対抗するための計画を根絶やしにしようとするのである。
 このような世界に住むウィンストンは、その世界のありかたに、いつからか疑問を抱き始める。当たり前のように流れるニュースや新聞の記事が、あきらかに自分の記憶と違っていることに気がつくのである。彼自身が事実の改変に携わっているため、この表現は奇妙に聞こえるかもしれない。より正しく描写するとするならば、彼は、自分が行っている作業がその一端を担う、その背後にある計画の大きさ、その深刻さに気がつくのである。それは国民全体に対するマインドコントロールであり、個人々々の、本来であれば改変不可能な経験によって構成される、かけがえのない人生の喪失であった。彼はそれに憤りを感じ始めたのだ。
 彼は偉大な兄弟に対して、静かなる反逆を始める。その第一歩は、自宅で“物陰に隠れながら”日記をつけるということであった。日記をつけるというだけで、なぜ、一人暮らしの彼が自宅で物陰に隠れる必要があるのだろうか。
 1つ目の理由は、日記を書くという行為それ自体が、国から不必要な行為とみなされており、“思想犯罪(ソートクライム)”として捉えられているということである。もっとも、この世界には法が無いため、明確な罰則があるわけではなかったが、思想犯罪者は抹殺され、その人物が存在したという記録もすべて消される。これは蒸発と呼ばれている。
 2つ目の理由は、すべての家庭には、テレスクリーンという機械が備え付けられているということである。これは、テレビと監視カメラが合わさったものだと考えていい。電源を切ることのできないこの機械に、人々はどこにいても24時間体制で監視されている。(ちなみに、このテレスクリーンからは絶えず偉大な兄弟の演説やエアストリップ1号の産業の発展を知らせる放送が流れており、国民は一日中その放送に曝されている。)
 そういうわけで、彼は自宅にいながら物陰に隠れ、日記をつけなければいけなかったのだ。彼は恐怖に震えながらもペンを取り、気がつくと同じ文章を何度も日記帳(これも、公的には手に入らないので、いわゆる闇市で手に入れたものだ)に書きつけていた。


偉大な兄弟を打倒せよ
偉大な兄弟を打倒せよ
偉大な兄弟を打倒せよ
偉大な兄弟を打倒せよ
偉大な兄弟を打倒せよ


 かくして、彼は、異常な世界において、正常な人生を手に入れんとする覚悟を決めるのである。
 その後、彼は同じ意思を持つ女性と出会い、偉大な兄弟の監視の行き届いていない場所を見つけ、自由と開放感を享受する。そして、偉大な兄弟に反抗する勢力である、“兄弟同盟”の一員である男ともコンタクトをとり、一時は順調に彼の望む人生に近づいていくように見えた。しかし、この男は、実は“愛情省”の回しものであり、監視されていないと思っていた場所も、そこでなされた会話は彼らに筒抜けになっていたことが判明する。ウィンストンたちは投獄され、拷問を受ける。何ヶ月とも感じるような長い時間、彼は、身も心もボロボロになりながら拷問に耐えた。しかし、ついに彼は洗脳される。彼は、心から偉大な兄弟を愛するようになる。彼は異常な世界で“正常”になったのだ。


 さて、みなさんはこの話の結末をどう捉えるだろうか?必死の抵抗もむなしく、最後には洗脳されてしまうウィンストンの姿はおそらくバッドエンドという言葉をみなさんの心に想起するのではないだろうか。そしてこのお話の世界に恐怖心を抱くのではないだろうか。しかし、私は考える。これは、これ以上に無いくらいのハッピーエンドである、と。洗脳され、拷問生活を終えた主人公のウィンストンは非常に晴れ晴れとした気持ちで愛情省を後にして、偉大な兄弟を愛し、生きて行く。エアストリップ1号での彼の人生が一生安泰であることは保証されている。もはや生活に対して何の疑問も抱くことはなく、不安になる理由も彼の人生からは消え去ってしまった。私には、この物語は、「めでたし、めでたし」という言葉で締めくくるのにもってこいのお話であるように思えるのである。
 振り返って我々の生活はどうだろうか。現実世界に偉大な兄弟はいない。我々は絶対的に頼れる強力な存在を欠いている。あらゆることに疑問を持つ余地があり、どんな前提も覆る可能性がある。これ以上に不安な生活があるだろうか。一向に減らないどころか、むしろ増加していく語彙は我々の思考を必要以上に複雑にし、その不安を、より込み入った、解決不可能なものにするばかりである。
 本書で示される偉大な兄弟の世界はかくも素晴らしい。ああ、なぜ私は、このような正常な世界に生まれてしまったのだろうか。無知の知は、無いほうが幸せなのではないだろうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!