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「立ち入りを禁ず」に感じる喪失感の正体 下

(この記事は、前回の記事の続きです)

それは、エアーズロックといえども、雨風にさらされることによって、少しづつ崩れていっているということである。

エアーズロックの周辺には岩がゴロゴロと転がっている。そして、その岩の位置からエアーズロックを見上げると、その岩と同じくらいの大きさで、窪んでいる場所を見つけることができる。

つまり、その岩が剥がれ落ちてからおそらく何百年、何千年、あるいはそれ以上の時間が経っているかもしれないのに、それにも関わらず、「ああ、あそこからこれが落ちてきたんだな」と簡単に推測することができてしまうような風景がそこには広がっているのである。

この風景を見た時、私は、宇宙的な時間の流れ方に触れた気がした。何千年前のある瞬間にガポっと落ちてきた岩が、地面に落ちて静止し、それ以降その場所に留まり続け、私が今それを発見することができる。人間的な時間間隔とは全く次元の違うものを感じ、感動すら覚えた。

このように、エアーズロックを見た時、宇宙的な時間に触れたことによって、心の中に生まれたのは「こんなに大きなスケールで動くものがあるんだ。」という感動だった。

しかし、その”超人間性”が日常的な風景のなかにあると、話は変わってくる。日常の中でそれは、喪失感をもたらすものになる。本来は人間的だった何かが、超人間的なものに”なってしまった”。もう、私達の手の届くもの、影響を与えられるものではなくなってしまった。そういう喪失感が、寂しさとともにやってくるのである。

それが、私達が、立ち入り禁止区域に対して抱く寂しさの正体なのではないだろうか。私達は、宇宙の一部として生きていながら、宇宙と同じ次元で過ごすことはできず、私達の一部とみなしている何かがその次元を生き始めた時、それは祝福するべき旅立ちとしてではなく、単なる喪失として受け止められ、寂しさを感じてしまう。

自分にとって親しみを感じるものは、できるだけ近くに、自分の手や声が届く場所に置いておきたいと思うのが人間である。だがそもそも、私達が暮らすこの場所や、私達の存在は、それよりもはるかに大きく、全く違う次元で動いている宇宙の一部である。そのように考えられたのなら、何かを失う悲しみを、少しは和らげることができるのではないだろうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!