稲刈りは幸せへの道?
時代は情報化社会である。
あらゆるものが電子情報化され、日常生活の隅々にまで行き届いた端末間で日夜せわしなく交換されている。
いわゆる機械化などという次元はとっくの昔に通り過ぎており、今はもっぱら、それらをどう効率化するか、どう管理するか、ということにフォーカスが置かれている。いわゆる、DXというやつだろうか。
このように電子機器と情報に囲まれた時代を生きている我々は、気を抜くと自分たちが自然の一部だったということを忘れてしまう。
例えば、食べ物からそのことが分かるのではないだろうか。
スーパーに行けばお目当ての食べ物は大抵手に入る。それも、加工済みのものが。これは食品加工が機械化によって容易になり、さらに情報化により流通等の効率が高まった結果として生まれた状況だと言えるだろう。
一本の魚ではなく、切り身が。小麦粉ではなく、パンが。カカオではなく、スニッカーズが、ときには原材料よりも安価に手に入ってしまうのである。
一人暮らしなどをしていると、これらのものについつい手が出てしまう。
そんな日々が続くといつのまにか、食べ物とはスーパーにあるものだと思ってしまっている自分に気がつく。
しかし、それは正しくない。
食べ物とは、基本的に、自然界で育ったものなのである。
土と、太陽光と、水。これが食べ物のできる場所である。
このような認識の倒錯は一体何を生み出すのだろうか?
それは、傲慢さである。
自分は生かされているという認識の欠如である。
いただきます。の意味の忘却である。
そしてその傲慢さは、対自然にとどまることはない。
傲慢さというものは、がん細胞のように心を侵食する。
自然に対する傲慢さは、その他全てに対する傲慢さへと、変遷して行くのである。
俺は食いたいものは何でも食える。俺の力で食っているんだ。
このような認識は、食事以外の全ての行為も、自分の力だけで成し遂げているような感覚を醸成してしまう。
これの何がいけないのか。
このような態度は、幸せを私達から遠ざけてしまうからいけないのである。
幸せの源泉は謙虚さである。今ここにあるものを、ありがたいと思えることが、それすなわち幸せなのである。
傲慢さはこの対局にある姿勢である。
では、どのようにすれば、この傲慢さから我々は開放されうるのであろうか?
便利なもので溢れ、お金さえ出せば大抵のものは簡単に手に入ってしまう。
そんな時代にどう抗えば良いのだろうか。
答えは簡単である。
めんどくさいことをやるのだ。
もう少し具体的に言えば、機械化、情報化等によって、簡単にできるようになってしまったことを、わざと物凄くめんどくさいやり方でやってみるのだ。
食器が欲しいと思ったら、陶芸体験に行って自分で作る。
電話がしたいと思ったら、電話ボックスを探してそれで掛けてみる。
お米が欲しいと思ったら、稲刈り体験に参加する。
こういったことを積み重ねると、いかに今の生活が、労働やそれに伴う様々な意識から隔絶されているのかを実感することができるだろう。
そして、その実感は、自然と謙虚さに変わるはずである。
何も変わらない日常が急にありがたいものへと変化し、日々を幸せに暮すことができるようになる。
幸せとは、ここに、このように、今いられることなのだと気づくことができる。
今はちょうど稲刈りのシーズンである。体験に申し込めるサービスも、そこはそれ、さすがに情報化社会。インターネットで探せば多数ある。
ぜひどれかに参加してみて欲しい。
そして、参加し、汗を流した暁には、「苦労は幸福である」という実感が湧いてくるのではないだろうかと思うのである。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!