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友達という贅沢品 〜社会に出てから友達を作るということ〜

社会人になると、仕事場以外での人間関係がかなり自由になる。
親元/地元を離れ、一人暮らしなど始めた場合にはそれが顕著である。

毎週違う人と知り合うこともできるし、何一つ新しい交友関係を作らないまま一年間をやり過ごすこともできる。

学生時代は、定期的に同じところにいて、直接的な利害関係も無いという人間が周囲にウジャウジャいたため、なんとなくの流れで「友達」的な雰囲気になっていくことがほとんどだったように思う。しかしこのような状況は、一人暮らしの社会人にとっては望んでもそうそう得られない代物だ。

このように、なんとなく友達になる機会が消滅するということは、友達になるかどうかは自分で決めるものになったということを意味する。
友人になるプロセスが、無意識のうちに自然な流れで進行するものから、目を爛々とさせて相手の素性を精査し、時間とお金と労力をかけて勝ち取らなければならないものになったということである。

このとき、人はあらためて友達という言葉の意味を考える。友達ってなんだっけ。どうやって作るんだっけ。どういう人と友達になりたいんだっけ。

私が友達になりたいと思う人の条件は3つである。
①安心感がある。
②自分を受け入れてくれるだけのキャパシティがある。
③グッと来るところがある。

①安心感がある。について。
心理的安全性というのは職場でよく聞かれる言葉だ。これがなければ仕事を長く続けることはできない。そしてそれは仕事を離れた場での人間関係でも同じである。これがなければ、長く一緒にいたいとは思えない。時に「なんか安心するな〜」と感じる人がいるが、こういった人は第一関門を突破している。

②自分を受け入れてくれるだけのキャパシティがある。について。
人は誰しもなかなか人には見せられないおかしな部分を持っている。ちょっと勇気を出してコンプレックスを共有したら、きっと受け入れてくれる。包み込んでくれる。と思えるほどに度量の大きさ、教養の深さを感じる人には思わず心を開きたくなる。精神的にちょっと弱っているときなどはクラクラッとくることさえある。この段階になると、お近づきになりたいな〜と感じはじめている。

③グッと来るところがある。について。
これは言語化しにくい部分である。その人の何気ない仕草や、話し方の特徴、言葉のセンス、ファッションなど。パーソナリティが出るものに思わず目が行ってしまえば、その人との人間関係に一歩踏み込むためのエネルギーが充填される。①②を突破しここまでくれば、もう友達にならずにはいられなくなっている場合がほとんどだ。自分の趣味に付き合ってもらいたい。その人がどういう反応をするのか見たい。自分の意見も交えて議論をしたい。そんな気持ちが出来上がってくる。

①②③はそれぞれ独立するものではなく、お互いに影響し合う。また、必ずしもこの順番で進むものでもない。相手のキャパの広さは安心感につながるし、安心感があるというところがグッとくるポイントでもある、ということもある。また、どれかが突出していればその他が多少弱くても気にならないということもあるだろう。

経験上、この3つが揃っている相手は非常に稀である。また、揃っていたとしても、年齢や社会的立場などがあまりにも異なっていると「友達」という関係にはなりにくい。とても仲のいい上司、になったり、メンター的存在として認識したりする。

社会人になってから、それまでの友人関係を維持したり、新たに作ったりすることが難しくなったという話をよく聞く。可処分時間が減少した中で、以上のような多重の関門を突破した人に会わなければいけないのだから、これは至極当然のことである。

友達が少ないという状態は、友達になりたいと本気で思えるような人に会えていない、というところに原因があるのだ。

友達を作るためにはどうしたらいいか考えてみる(友達を増やすべきかどうかというのは議論の余地がある命題だが、それは一旦忘れる)。

まずは、やはり多くの人に会うということである。数撃ちゃ当たるし、撃たなきゃ当たらない。その上で、①②③のどれも当てはまらなさそうな人はスルーし、この内の一つでも、その素養をしっかりと感じ取ることのできる人にターゲットを絞る。そして、その人がこれら3つとも保持している人かを見極めていく。

貴重な余暇と預金を費やし、世知辛い現代日本で友達という贅沢品を持つためには、このあたりが有効な戦略になってくるのではないだろうか。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!