かもめ食堂_1280_670

かもめ食堂 3┃群ようこ

銀行の仕事はじめの日、サチエはおどおどしながら、預金している銀行に換金しに行った。事前に電話で段取りを聞いてはいたが、周囲をきょろきょろと見渡し、明らかに挙動不審の女である。

それを見透かしたのか、フロア担当の女性行員が、
「お客さま、今日はどのようなご用件でございますか」
と寄ってきた。サチエは彼女の耳元で、
「あの、宝くじが当たった……みたい……なんですけど。電話は事前にしておいたんですけど……。保険証と印鑑は持ってきました」
 とささやいた。

すると彼女は、
「かしこまりました。それではどうぞこちらへ」
 と別室に案内してくれた。

支店長自ら姿を現し、
「新年早々、なんとめでたいことで」
 と大声でいわれて恐縮した。彼らも銀行の預金が一気に増えてうれしいのであろう。

(でもすぐに引き出すもんね)

 サチエは突然、桁数が多くなった通帳を眺めながら、まだこれが夢ではないかと疑いながら、家に帰った。

そして会社の仕事はじめの日、上司に退職届を出した。

「新年早々、何なんだよー」

 サチエは会社から期待されていた。何度も何度も慰留されたが、
「すみません」
 と深々と頭を下げて、三月末でやめることにした。


 資金は得た。会社もやめられる。次はティモさんである。

今度は本題に入る手紙を書いた。ヘルシンキで店を出したいこと、もしそのときは保証人を頼めるだろうかというお願いであった。律儀な彼からはすぐに返事が来た。

また、
「おろろきました」
 と書いてあり、自分にできることならば協力したいといってくれた。

サチエはすぐに詳細が決まったら連絡すると礼状を書いた。

父にこの話を打ち明ける前に、すべて周りを固めておかなくてはならない。

誰に聞いていいやらわからず、テレビに出ていた弁護士の事務所を調べて電話をしたら、意外にも親切にあれこれ調べて教えてくれて、店を出すには現地法人を設立しなくてはならないとわかった。

生まれてはじめて弁護士事務所に出向いて手続きをしてもらい、併せてフィンランド大使館へも現地に滞在する目的、期間、住居などを書いた書類を提出しなくてはならない。とりあえず何の許可も得ていないが、住居はティモさんのところにしておいた。

わけのわからぬまま、何かをするごとに、
「あら、またですか」
 という具合にお金が出ていく。

でもサチエにはどかんと当たったものがある。自分のくじ運のよさを本当に神様に感謝したかった。

 このことを父には全く知らせなかった。サチエが子供のころから、父は十年一日、判でついたように朝四時に起き、
「人生すべて修行」
 を貫いていた。

サチエはすべての許可が下り、あとは現地に出発するという最終段階まで、父には黙っているつもりだった。へたにその前の段階で打ち明けると、技をかけられてギブアップさせられる可能性がある。いくら敏捷で武道の才能があるといわれたサチエでも、父には勝つ自信がない。

秘密裏に着々と準備は進んでいたが、それに全く気付いていない父は、竹刀しないを手に素振りをしたり、近所を下駄で走ったりと、武道を貫いていた。

 すべて準備は整った。

ティモさんが役所のお偉方に武道を教えていて、その関係でいちばん肝心なところに、太鼓判に等しい価値のサインがもらえたのもとてもありがたかった。ティモさんからは、うちには泊められないけど歓迎する、という手紙ももらった。

「おまちしてます」

 という文字を何度も眺めた。

パリ経由フィンランド行きの、チケットも購入してある。出発は明日の朝だ。自分の部屋でこっそり荷物をまとめながら、サチエはちょっと心が痛んだ。

持っていく荷物は、スーツケースひとつ、身の回りのものだけである。ここでも当せん金の存在はありがたかった。こっちから運ばなくても、あちらで調達できる。食器もきっとシンプルで使い勝手がいいものがたくさんあるだろう。

父は知らない、サチエの日本最後の夜、二人はいつものように向かい合い、黙々と晩御飯を食べていた。

「おいしい?」

 そう聞いたサチエに父は、
「どうしたんだ、そんなこと今まで聞いたことなんかないじゃないか」
 と御飯に目を落としながらいった。

「何となく、聞いてみただけ」

 父は黙って箸をすすめていた。

だんだん胸が高鳴ってきた。晩御飯も済み、父は手拭いを手にして、風呂場と居間を行ったり来たりしていた。サチエは大きく息を吸って、

「お父さん」

 と呼びかけた。

「何だ」

「ちょっと話があるんです……けど……」

「ん?」

 父は床の間の前に座った。

「あのう……」

「結婚するのか? かまわんから好きなようにしなさい」

 娘の口から聞く前に、自分で先手を打ったつもりらしいが、それは大はずれだった。

「結婚じゃないんです」

「じゃあ、なんだ」

 三十代の後半になった娘が告白することといったら、結婚しか頭にない父が情けなくもあった。

「あの、私、フィンランドに行きます。それで、しばらく帰りません。旅行じゃないの。あっちに住んで食堂をやるの」

「あ?」

「全部手続きも済んで、それで……。明日の朝、出発なの」

 娘から予想もしていなかったことをいわれて、父はさすがに驚きを隠せなかったが、武道家のプライドもあるのか、

「むうう」

 とうなって目をつぶった。瞑想をして心を落ち着かせているのか、それとも目をつぶっているうちに寝てしまったのか、サチエはじーっと動かない父を見つめた。

「黙っていてごめんなさい。きっと反対されると思ったから。お金のことも心配しないで。私のほうで全部できるから。それで、これはこれまで育ててもらった御礼です」

 サチエは開いた通帳を座卓の上に置いた。父は薄目を開けた。そこには千五百万円と記帳されていた。実は二千にしようかなと思ったのだが、今後のことを考えて、五百、減らしてしまったのである。

「どうしたんだ、こんな大金」

「宝くじが当たりまして。これだけではこれまで育てていただいた御礼の何百分の一にもならないかもしれませんが、これで許してください。こういう娘ですので、お腹立ちであれば、勘当してくださっても結構です」

 サチエはずっと正座をしていた。二人の耳に、風呂場から湯が流れ出る音が聞こえてきた。父はあわてて手拭いを取り上げ、風呂に入ってしまった。

その間、ずっとサチエは正座をしていたが、風呂からあがった父は、

「おまえも早く入れ」

 といって、自分の部屋に引っ込んでしまった。

風呂に入りながらサチエは、フィンランドに行くのは旅行じゃないんだ、仕事なんだと、あらためて自分にいい聞かせた。風呂から出たら、父はすでに寝ていた。

 翌朝、目が覚めると、台所で人の気配がした。いつかこんなことがあったと思いながら起きると、父がおにぎりを作ってくれていた。

「持って行け。人生すべて修行だ」

 父は自分にいい聞かせるようにそういって、おにぎりの包みを両手でサチエに突き出した。

「はい。行ってきます」

 サチエは誰も見送らない玄関を、ただ一人で出ていき、そして一人でフィンランドのヘルシンキ・ヴァンター空港に到着した。

 まずはホテルに荷物を運び、ティモさんに連絡をした。彼はすぐにやってきてくれて、
「オロロキマシタ」
 を連発した。そして約束した通り、フィンランド政府への手続き、サチエの住むアパートの契約など、保証人が必要なときはいつでもついてきてくれたり、書類にサインをしてくれた。

許可も下り、店も決まり、あとはサチエの気持ちひとつで開店を待つばかりというときに、彼は、

「ゴメンナサイ、ワタシ、フィンランドカライナクナリマス」

 という。

見知らぬ土地でただ一人、心のよりどころになる人だったが、韓国に武道の修行に行くことが急に決まったというのである。

彼の出国が早まっていたら、こんなにスムーズに事は運ばなかった。サチエは自分の運のよさを、再び神様に感謝したくなった。

 アジアの国から来たサチエは、アジアの国へ行くティモさんを空港で見送り、開店準備を着々と進めていた。

アパートもティモさんの口ききもあって、適当なところが見つかった。日本でいえば2DKといった間取りだが、コンパクトで使い勝手はいい。

シンプルでかわいい食器を求めて、街なかを歩くのは楽しかった。ふところも温かいし、夢はふくらむばかりだ。

「いけない、そんなに甘いもんじゃないんだから。いい気になっちゃいけません」

 サチエはエテラ港で、足元を歩くころっころのかもめに向かっていった。かもめは、
「何やってんの」
 という顔でサチエを振り返り、とことこと歩いていってしまった。

「かもめ……ねえ」

 日本でかもめというと、かわいい水兵さんか演歌の脇役だが、フィンランドのかもめはどことなく、のびのびとふてぶてしく、またひょっこりしていた。このひょっこり具合が、自分と似ているような気がしてきた。

「かもめ……、かもめ食堂……、でいきますか」

 またやってきた別のかもめに声をかけると、かもめはくりっとした目をぱちぱちっとさせた。

「はい、かもめ食堂。決定しました!」

 サチエは小さく拍手をして、ふうっと大きく息を吐いた。

港のそばの市場には、色とりどりの野菜や果物が並んでいる。観光客も多い。ネコがいるので、あらっと思ったら、その子はイヌのようにリードをつけられていた。そのリードを手にしていたのは、老夫婦だった。二人はゆったりと並んで歩き、前を行くネコの尻尾しつぽはぴんぴんに立っている。

サチエはふふっと笑って、南側の屋内市場に歩いていった。

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