かもめ食堂_1280_670

かもめ食堂 4┃群ようこ

いちばん最初に誰が気が付いて来てくれるだろうかと、サチエはグラスを磨きながら、日がな一日待っていた。実は周辺の人々はみな気が付いていたのだけれど、最初の一歩が踏み出せなかったのである。

ある日、厨房の中で、同じ皿なのにどこか大きさが違うような気がしてきて、じーっと見比べていると、静かにドアが開いた。

はっとして顔を上げると、そこにいたのは、へたくそな手描きのニャロメが描かれたTシャツを着て、半ズボンを穿いた青年だった。サチエはうれしいというよりも、びっくりした。何も宣伝などしなくても、ドアを開けて入ってきてくれる人がいたからであった。彼は、サチエの顔を見て、ぱっと顔を輝かせた後、にっこり笑いながら、

「コニチハー。カ、モ、メ?」

 とドアを指差しながら語尾を上げた。

「ヨー(はい)、かもめ。lokki」

「アア、ソウデス。ワタシ、ヨメマスタ」

 ちょっと怪しい日本語で彼は話しかけてきた。

「ニホンゴ、ベンキョ、チョットシマシタ。ドコデ? シミンコウザデ。ニホンジンノオクサマガ、オシエテクレマスタ。ニホンノジ、エート、エロガナ、トテモカワイイデスネ」

「えろがな?」

 サチエは首をかしげた。

「エー、アー、マルイデスネ。『か』『も』『め』」

 空に指で書いた。

「ああ、ひらがなですね」

「ア、ソウデス? ヒーラガナデスカ。アア、センセイ、イッテマシタ。ヒーラガナ、カタカネ、カンズ。オモイダシマシタ。ワタシノナマエハ、トンミ・ヒルトネンデス。ドゾヨロシク。アナタノオナマエハ、ナニデスカ」

 地元の人にしては珍しく、おしゃべりな青年であった。サチエは彼の覚え間違いを訂正し、コーヒーを淹いれてあげた。彼はカップを前にして熱く語りはじめた。

 トンミくんは一年前、たまたま日本のアニメーションを見て興味を持ち、少しでも日本語を理解しようと、ヘルシンキの市民講座で、短期の日本語のクラスが開講されたのを機会に、そこで勉強したこと。ぜひお金を貯めて日本に行って、ガッチャマングッズをたくさん買いたいのだといった。

「はあ、ガッチャマンねえ」

「ガッチャマン、スバラシイデス。コンドルノジョー、ケン、ジュン……アアッ……」

 青年は胸の前で両手を組み、うっとりした顔で身もだえした。

「でも、あなたが着ているのは、ニャロメのTシャツですね」

 サチエはクールにいい放った。

「コレ? デスカ。ハイコレハ、ニャロメデス。ガッチャマンデハアリマセン。ガッチャマンノツギニスキデス。ハイ、デモコレハ、ニャロメデス」

「どこで買ったんですか」

「ドコデ、カッタ? ハイ。ニワデカイマシタ」

 どうやらフリーマーケットが開かれ、そこで買ったらしい。Tシャツをよく見ると、ニャロメは太字のマジックインキみたいなもので描かれ、もちろんへたくそであった。白いTシャツが寂しいので、適当にニャロメを描いたといった感じの、どうでもいいTシャツであったが、彼はとても気に入っているらしく、襟元はよれよれに伸びていた。

「ガッチャマンハ、ダイスキデス。ウタモスバラシイデス。『ラレラ、ラレラ、ラレラーッ……』」

 調子っぱずれの声で彼は歌いはじめた。アニメーションには疎いサチエにも、それは明らかに勘違いしているのがわかった。

「それは『誰だ、誰だ、誰だー』じゃないですか」

「『ジャナイデスカ』ッテ、ナンデスカ」

 この構文は彼にはちょっと難しかったようだ。

「あなたは、間違えています。わかりますか」

「マチガエテイマス。アア、ハイ、ワカリマスタ。エッ、マチガエテイマスカ? ドコ、ドコ?」

 彼が焦ったのを見て、ついサチエは曲を口ずさんでしまった。

「オオオオオー」

 トンミくんは感動で再び身もだえした。そして背負っていたデイパックの中からあわてて紙とボールペンを出して、

「マタ、マタ、ウタッテクダサイマセ。オネガイシマス」

 と目を輝かせた。サチエは、

「誰だ、誰だ、誰だー」

 と歌い、彼は、

「dareda dareda dareda」

 と書きとめた。書き終わるとぱっと顔を上げ、期待の目でサチエの顔を見る。

「ごめんなさい。ところどころしか、歌詞を知らないの。あのね、私はここと、『地球はひとつ、地球はひとつ。おーガッチャマン ガッチャマン』のところしかわからないの。ごめんなさい」

 彼はきょとんとしていたが、事情を理解したようで、がっくりと肩を落とした。サチエはおぼろげな記憶をたどりながら、小声で歌いはじめたが、やはり全部を覚えているわけではなかった。

「ミンナ……、ゼンブ、ワカリタイデス」

 悲しそうな顔をした。なまじ歌ってしまったために、期待を持たせてしまって、サチエは彼が気の毒になってきた。

「ガッチャマンノウタ。シリタイデス。ワカラナイノハ、トテモオオキナ、カナシイモンダイデス」

 トンミくんにとってはトテモオオキナ、カナシイモンダイと聞いて、主題歌を口ずさんでしまった自分をとても後悔した。彼は困ったような顔で、じっとサチエを見つめている。

「ごめんね。少し時間がかかるかもしれないけど、調べて正しい歌詞を教えます」

 そういってやっと納得してもらった。

 結局その日は、厳密にいえば客ではない、トンミくんしかお客は来なかった。おかわりのコーヒーも店の持ち出しになった。

「サチエ……チャン。ワカリマシタ。ココスキデス。マタクル。サチエチャン、サヨウナラ」

 彼は合掌をして店を出ていった。

「はい、ありがとうございました」

 店を出て見送ると、トンミくんは何度もこちらを向いて大きく手を振り、自転車に轢(ひ)かれそうになっていた。

 次の日、彼はゲイシャチョコレートを持ってきて、サチエにくれた。パッケージにいかにも外国人が描いた芸者の姿が印刷されている。

「キートス(ありがとう)」

 サチエに喜んでもらったとわかったトンミくんは、満面の笑みを浮かべて、満足そうに何度もうなずいた。彼が店にいることで、地元の人も少し安心して入りやすくなったのか、ぽつりぽつりとお客さんが来るようになった。

彼らは椅子に座って、きょろきょろと店内を見渡し、どこをどう見ても、サチエ以外に店の人間がいないので、
「やっぱりあの女の子が、一人でやってるんだわ」
 と小声でささやき合った。 

トンミくんは日本語が少しわかるとあって、地元の人々に対して、日本通として優越感を持っているようだった。しかしそれは地元の人々にとっては、何の尊敬にも値しなかった。

「かもめ食堂」のメニューは、ソフトドリンク、フィンランドの軽食。煮物、焼き物などの日本食、夜はアルコールも出す。味噌汁、そしてサチエの一押しであるおにぎりが、おかか、鮭、昆布、梅干しと揃っている。

しかし客の注文はほとんど、ソフトドリンクとフィンランド料理ばかりだった。注文をとるときは必ず、
「おにぎりもいかがですか」
 と勧める。

なじみがないフィンランド人が、それはいったいどういうものかとたずねるので、握ったものがあればそれを見せ、ないときは説明する。

それを見たトンミくんは、
「なかなかおいしいですよ」
 と横からしゃしゃり出てくるのだが、それを聞いておにぎりを注文する客は一人もおらず、みんなに、
「いや、結構」
 と見事にきっぱりと断られた。

自称日本通のトンミくんが、珍しく自腹を切っておにぎりを注文したことがあった。おかかと鮭の二個セットだったが、鮭はともかくおかかのほうは、飲み込むのに難儀しているようだった。

それでも日本通のプライドにかけて、
「トテモオイシイデス」
 というしかなく、涙目になっていたのを、サチエは見逃さなかった。

それでも彼女は、おにぎりに固執した。作る人が心をこめて握っているものを、国は違うとはいえわかってもらえないわけがないと信じていた。客にお勧めを拒否されても、彼女は腐ることもなく、にこやかに客と接し続けていた。そんなサチエを、トンミくんはうっとりと眺めていた。

 青年の「かもめ食堂」への日参は続いた。彼は厨房で忙しく立ち働いている彼女に、あれやこれやと話しかける。

「だめ。今は忙しいの」

 ふだんはふんふんと彼の話を聞いてあげるサチエだが、仕事となるとそれに没頭した。一喝されると、

「アア……ハイ……スミマセン」

 としゅんとして店の隅に座っている。そして客足が途切れたのを見計らって、なんだかんだと話しかけてきた。

「オトウサン、オカアサンハドコデスカ」

「お父さんは日本にいますよ」

「ニホンデ、イルデスカ? フィンランドニヒトリデスカ?」

 トンミくんは不思議そうな顔をした。

「そうですよ」

「サビシクカナシクナイデスカ」

「いいえ」

 きっぱりとサチエはいった。

「デモ、オンナノコヒトリ、アブナイデス」

「女の子? 誰のこと?」

「サチエサンデス。オンナノコデス」

「ああ、まあ、広い意味ではねえ……」

「ヒロイイミッテナンデスカ? ソレハドウイウコトデスカ」

 彼は必死の目つきになった。

「あ、あの、私は女だということです」

「ソウデス、ソウデス」

 真顔で大きく何度もうなずいた。

「ガッコウハ……、イキマシタカ?」

「行きましたよ。東京の大学を卒業しました」

「…………」

 うっと言葉に詰まった。

「ア……」

 明らかに彼が落胆しているのを見て、サチエは、

「私、いくつ、何歳に見えますか?」

 と直球を投げた。

「イクツ、イクラ、ナンサイ……。ナンサイデスカ?」

「はい、私が何歳だと思いますか?」

 彼はだんだん顔を紅潮させながら、小声で、

「十五歳」

 といった。

「十五歳?」

 サチエはげらげらと笑った。トンミくんは口を真一文字に結んで緊張した顔をしている。

「私は三十八歳です」

 明らかに彼の瞳孔が開くのがわかった。一瞬、くらっときたらしく、壁に頭をぶつけた。

「サンジュウハチサイッテ、サンジュウハチコ、サンジュウハチネントオナジデスネ」

 涙目になっていた。

「そうです」

「フエ~ン」

 彼は何ともいえない声を出しながら、サチエの顔を見つめた。

「スコシカナシイデス。デモガンバリマス。ナカナイデス。キョウハサヨナラデス」

 彼はがっくりとうなだれて、荷物を持って店を出ていった。その後ろ姿を見送りながら、サチエは、

「早いとこわかったほうが、彼のためにもいいし」

 とつぶやきつつ、もう店には来てくれないかもしれないと思った。

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