かもめ食堂_1280_670

かもめ食堂 5┃群ようこ


翌日、いつもより遅く、いつもより元気なくではあったが、トンミくんはやってきた。これまでの能天気な様子とは違うけれども、また店には来てくれたのである。

「コーヒーでいいですか」

 サチエはいつものように明るくたずねた。

「ハイ」

 おとなしく彼はうなずいた。さすがにショックが大きかったのか、ほとんどしゃべらない。客もほとんど来ないので、その日はサチエのほうから、彼が興味を持っている、日本のアニメーションの話をした。鉄腕アトムがどうのこうの、最終回はこうだったと、あれこれ話し相手になっていると、ふっと彼は思いだしたように、

「ガッチャマンノウタ……」

 と訴える目つきをしてつぶやいた。

「あ、そうだったね」

 サチエははっとした。彼に約束したことをまだ果たしていないのである。

「ごめんね、もう少し待ってね」

 実は何もしていなかった。日本にいる誰かに連絡をとらなければと思いつつ、周辺には歌詞を知っているような人も思い浮かばず、それっきりになっていた。

「ガッチャマンノウタ……」

 もう一度、悲しそうにつぶやいた。

「わかった、何とかするわ。もう少し待ってね」

「ワカリマシタ」

 彼はとっても悲しそうだった。

 サチエは困っていた。ちゃんと歌詞を教えない限り、彼は納得しないだろう。そしてそれはサチエの信用問題であり、ひいては「かもめ食堂」の信用にもかかわる。

サチエの実年齢を暴露して衝撃を与えたこともあり、サチエのせいではないけれども、二重の苦悩を彼に強しいるのは気の毒でもあった。

いったいどうしたものかと、彼女は悩んだ。インターネットで探そうとしても、著作権の問題があるので、全部は公開されていない。

「いったいどうしたらいいかしら」

 サチエの頭の中は、「ガッチャマンの歌」でいっぱいになっていた。休みの日、ヘルシンキの街なかを散歩していても、

「誰だ、誰だ、誰だー」

 とつい口ずさんでしまう。しかしその後の歌詞が出てこない。

「うーん」

 うなりながら思わずサチエの足はアカデミア書店に向かった。何の本を買い、何の本を読むわけでもないが、書店に入るとなぜか心が安まる。

一階の書棚を眺め終わり、二階のカフェ「アアルト」に入った。ここでお茶を飲んで、ぼーっとするのがサチエは好きだった。

ふと見ると大柄な東洋人の女性が、コーヒーを前にして不安げな表情で、ぽつんと一人で座っていた。東洋人には間違いないが、いったいどこの国の人かはわからない。

そーっと様子を窺った結果、彼女が手に文庫本を持っているのを見て、日本人だと確信したサチエは、つかつかと彼女の前に歩み寄った。そしておもむろにたずねた。

「ガッチャマンの歌、知ってますか?」

「はっ?」

 サチエとミドリが最初にかわした会話はこれだった。ミドリはしばらく呆然とサチエの顔を見つめていたが、はっと我に返った。

「あ、ええ、はい。わかります。全部知っていると思います」

「教えてくださいっ。お願いしますっ」

 サチエはかっと目を見開いて、ミドリの顔を見つめる。

「あ、ああ、はい、わかりました」

「あ、書くものが……」

「大丈夫です。私、持ってますから」

 ミドリはバッグの中からボールペンと手帳を取り出した。

「準備がいいんですね」

 サチエは感心した。

「昔から習慣になっちゃってて」

 ミドリは恥ずかしそうにつぶやき、手帳を破って書きはじめた。達筆だ。

「誰だ 誰だ 誰だ 空のかなたに躍る影
 白い翼のガッチャマン
 命をかけて飛び出せば 科学忍法火の鳥だ
 飛べ 飛べ 飛べ ガッチャマン
 行け 行け 行け ガッチャマン
 地球は一つ 地球は一つ
 おおガッチャマン ガッチャマン


 誰だ 誰だ 誰だ 海の地獄に潜む影
 強い勇気のガッチャマン
 嵐をさいて雲きれば 科学忍法火の鳥だ
 飛べ 飛べ……」

 信じられないくらい、すらすらと歌詞を書いた。

「すごい。完璧です」

「弟が大ファンだったので、私もずっと一緒に見ていたら、覚えちゃったんです」

「そうそう、こういう歌詞だった」

 サチエは歌詞を見ながら、小声で歌った。ミドリはフィンランドのカフェで、それも到着したとたんに、ガッチャマンの歌詞を書かされるとは想像もしていなかった。

「私、食堂をやってるんですけど、そこに来る日本かぶれの男の子がいて、ガッチャマンの歌を教えてくれって、ずっと頼まれていたんです。最初のところしかわからなくて。でもよかった。これで何とかなりました。ありがとうございました」

 サチエはぺこりと頭を下げた。

「い、いえ、こちらこそ、どうも」

「名前もいわずにすみません。私、ハヤシサチエです」

「あ、私はサエキミドリといいます」

 二人がかわりばんこに頭を下げるのを見て、隣の席のフィンランド人の初老の夫婦が、くすっと笑った。

「サエキさんは観光でいらしたんですか」

「いえ……」

 ミドリはいいよどんだ。

「ああ、留学ですか」

「いえ、そうじゃなくて……」

 サチエはわけがありそうなミドリの顔を見つめた。

「指差しちゃったんです」

「えっ、指差しちゃった?」

ミドリは一人で日本からやってきた。

彼女は兄二人、弟一人の四人きょうだいで、両親にとってはたった一人の娘だった。幼いころからきちんとしつけられ、書道、お茶などの習い事もし、小学校からエスカレーターで進学できる私立校に通い、大学を卒業して就職した。

それも一般企業ではなく、父親の知り合いの、天下りの役人が集まった小さな会社であった。両親はそういう年齢の高い人々が集まる会社にいれば、それなりの縁談もあるだろう、若い男性は一人もいないので、悪い虫もつかない。つぶれる心配もないというので、ミドリをそこに就職させることにした。

彼女はそれに対して何の疑問も持たずに、素直に親に従った。親のいう通りにしておけば間違いないといわれたので、たしかにそうだと納得していたのである。

学生のときはよい成績をとり、娘といわれる年齢になったら品行方正、適齢期になったら社会的に非の打ち所のない男性と見合い結婚をして、子供を産み育てる。そういうものだと疑わなかったのである。

 就職した会社の仕事は本当に楽だった。薄っぺらいタブロイド判の農業関係の新聞を月刊で発行していたが、ほとんどが決まり物で、新しいニュースを追いかけるとか、日々取材で追われるといった業務では全くなかった。おじさんたちは、月のうち一週間だけしか働いていないように見えた。

それでも給料は、
「え、こんなに?」
 と驚くくらい、ちゃんともらっていた。

ミドリの給料は年齢の相場であったが、仕事の分量から比べると、明らかにいただきすぎる額だった。

ミドリは毎朝、九時に、都心の小さな古いビルの五階にある会社に出社してまず窓を開け、掃除をする。みんな残業などほとんどしないので社内もほとんど汚れない。十人分の机の上を拭き、乱れていたら整え、お茶を淹れる準備を調える。三々五々、いちおう嘱託社員という肩書きのおじさんたちが、のんびりと現れると、一人一人にお茶を淹れる。

彼らは出社してもすぐに業務にとりかかるわけでもなく、席に座ってずーっと新聞を読んでいる。なかには社内のテレビをつけて、奥様番組を見ていたり、ゴルフのビデオを会社に置いていて、ビデオレコーダーにセットして、プロゴルファーのスイングを食い入るように見つめている人もいる。

ミドリ自身も、いったいこの誰も働いていないようにしか見えない会社に、どうしてお金が入ってくるのか、把握できていなかった。

 布袋様(ほていさま)みたいな容姿の経理担当者がいて、ミドリは彼から命じられて経理関係の手伝いもさせられた。といっても銀行に行って、指定の口座に振り込みをするとか、通帳の記帳をするといった、子供のおつかいみたいなものばかりだ。

請求書書きも一年一律、金額も宛先も決まっているから、締め日が来たら機械的に請求書を書いて送るだけ。他にはおじさんたちから頼まれた用事、たとえば彼らが書いた手紙をポストに投函する、ときには代筆もした。新聞の送り先リストの管理、慶けい弔ちようの贈り物に気を配るなど、そういうことがミドリの仕事だった。

二十代のころは、まだパソコンも一般的ではなかったから、それなりに仕事の能率も悪く、のんびりやって始業から終業まで、なんとか一日、仕事をもたせていた。

両親の目論見(もくろみ)通り、見合い話もひんぱんにあり、積極的に見合いしたものの、どれも実を結ばなかった。

パソコンが導入されてからは、あっという間に仕事は終わってしまい、一日のうちほとんどは暇になった。新聞の送り先リストも、手書きで書いていたころが懐かしくなった。

住所変更があるたびに、インク消しで住所を消して、新しい住所に直す。あいうえお順を考えながら、贈呈リストの名前の順番を完璧なものにする。

そういうことに命を燃やしていたが、パソコンだと、あっという間に全部をこなしてしまう。仕事が一瞬で終わってしまうと、後は何もすることがなく、ただひたすら本を読んで時間をつぶしているような有様だった。

もうこのころには見合い話もなくなり、おじさんたちはすでにミドリは結婚をして、子供を三人くらい産んでいると勘違いしているような扱いになっていたし、ミドリ自身も、刺激はないけれども、のんびりした毎日に慣れきってしまい、このままいれば楽だなあくらいにしか思わなくなっていた。

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続きは、書籍にてお楽しみ下さい

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