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ブラジルとポルトガル:ヨーロッパ系ブラジル人の起源(2)ブラジル発見
(1)からの続き
以上のような大航海時代の到来の中で発見されたのが、ブラジルでした。この発見が意図的だったのか、偶然だったのかは説が分かれていますが、とりあえず、その話は置いておいて、まずはだれがブラジルを発見したのかということを確認します。
1.ペドロ・アルヴァレス・カブラル
コロンブスの成功に焦ったポルトガル王は、1497年にインドに向けて、ヴァスコ・ダ・ガマを派遣しました。ガマは翌年、はじめてアフリカ周りでインドに到達しました。ガマが帰国すると、国王は毎年、インド洋に艦隊を派遣するようになりました。これによって、ポルトガル国王は、インドで手に入れた香料(胡椒など)を手に入れてヨーロッパで売りさばき、大きな利益を上げました。そのため、ポルトガル国王は「商人王」とも呼ばれました。ポルトガルはインドから東南アジア、そして1543年には日本にやってきました。
さて、ブラジルはこのインドへ派遣された艦隊によって、早くも1500年に発見されました。ブラジルに初めて足を踏み入れたポルトガル人は、ペドロ・アルヴァレス・カブラルという人物です。
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カブラルは、ヴァスコ・ダ・ガマの成功をより強固なものにするため、ポルトガル国王がインド洋に派遣した艦隊の司令官でした。カブラルは13隻の船を率いて、インドに向かい、その道中に「ブラジル」を発見しました。どうやら、カブラルは、現在のブラジルを新しい大陸と見たようです。カブラルはこれを伝える船一隻を本国に送り戻しました。そして、自身は、航海を続けたインド洋に至ります。
2.カミーニャの書簡
カブラルの艦隊がブラジルを発見した経緯は、いくつかの史料から明らかになります。カミーニャという人物の残した手紙、氏名不詳の水先案内人の報告(水先案内人とは航路を読む専門家です)、メストレ・フアンの手紙です。このうち、カミーニャの手紙が一番信頼できる史料だとされます。そこで、ここではカミーニャの手紙の記述を見ていきましょう。
カミーニャによれば、艦隊は1500年3月9日にリスボンを出発しました。その後、予定通り、マデイラやカナリア諸島を抜けていきます。そして、44日目、艦隊は陸が近いことを知ります。カミーニャは次のように伝えます。
翌日〔4月22日〕の水曜日の朝になるとフラ・ブッショと呼ばれている鳥の姿が眼にとまりました。そしてこの日の晩課の時間に陸が見えたのです。最初にみえたのは丸い形をした大変高い山で、ついで山の南に低い丘が見え、それから木がおおい茂っている平らな陸が見えました。司令官はその高い山をモンテ・パスコアル(復活祭の山)と命名し、その土地はテーラ・ダ・ヴェラ・クルス(真の十字架の土地)と命名しました。
ポルトガル艦隊は外海から南米大陸に近づき、山のような景色と大地を見つけたのです。そして、かれらはそこが処女地であるかのように思ったとみて間違いありません。かれらは、そこにキリスト教にちなんだ名前を付けましたのです。
3.現地住民との接触
さらに、ポルトガル人らの行動は積極的になっていきます。かれらは翌日、この土地に上陸することを決めます。そして、先住民族を発見して、接触を試みましたが、高い波のためほとんど言葉も交わせなかったとあります。そして、翌24日、25日とポルトガル人は別の先住民に接触しています。
カミーニャの手紙からは、ポルトガル人が先住民に強い関心を持った様子がわかります。手紙には、先住民の肌や髪の毛、筋肉の付き方など細か所までよく描写されているのです。
また、それらの描写を読む限り、カミーニャらにとって、先住民は美しいものとして描かれています。とくに女性についてはポルトガルの女性よりも愛らしいと何度も書きます。そうした記述からは、現在、先住民を未開人として馬鹿にするような意識はないように見え、ポルトガル人と先住民の接触が最初は非常に好ましいものだったことがうかがえます。
4.十字架の意味
とはいえ、ポルトガル人にとって、この土地は自分たちが占領した(今後するであろう)土地であったにちがいありません。それはこの地を、真の十字架の地と名付けたり、実際十字架を立てたことからも明らかです。ポルトガル人たちは、5月1日には十字架を設置して、ミサを行います。
すでに述べたように、ポルトガルはローマ教皇によって、非ヨーロッパ世界での布教を認められている立場にあって、土地の占有権なども持っていました。ですから、かれらが十字架を立てるというのは、自分たちが先に来たことを示すことにほかなりませんし、いずれキリスト教を布教して、キリスト教徒の土地にする意思表示になります。ブラジルの地もそういう意味では最初からポルトガルの植民地主義に飲み込まれていたのかもしれません。
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ところで、上の絵画は最初のミサのようすを描いたものです。しかし、カミーニャの手紙と合わせると奇妙な点があります。まず先住民が参加している点です。カミーニャの手紙では、先住民はこのミサに参加していません。また、最初のミサなのにすでに十字架が立っているのややおかしな点です。十字架が立つのは二回目ミサのときだからです。こうしたことから、この絵の作者が歴史的場面をドラマチックに再現していることがわかります。こうした演出は、歴史研究ではタブーとされます。つまり、これが歴史小説と研究との大きな違いともいえます。
ブラジルとポルトガル:ヨーロッパ系ブラジル人の起源(3)へつづく
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