らしさを捨てたい

某漫画の二次創作を一年近く止めていたが、結局再開することとなった。

書き始めた当初よりも更新する頻度や間隔は落ちたものの、以前からの読者の方々が変わらず喜んで下さることは、本当にありがたいことだ。「◯◯様(私のこと)の文体だ」、「◯◯様らしい表現」等々の感想をいただく。

このようなかたちで文章を書き始めて数年経つが、時間が経過してつくづく感じるのは、文体が固まってしまうことだ。

プロの作家でもない自分如きを省みるまでもなく、すべての創作者は自分の作風というものを持っており、その作風によって自作、創作者としての自分自身を確立させていく。その作業の繰り返しによって、所謂「らしさ」が醸し出されていくのだろう。

読んで下さる方々は、その「らしさ」を期待されているかと思うものの、自分自身はこの「らしさ」を捨てたいのである。

固まった文体を、限られた語彙を、◯◯様ワールドと言われる自分の作り上げた世界を離れ、新しい表現方法をどうにかして掴み取り、自分のものにしたい。

そのため、二次創作としてネット上で発表してきたものや、その中の人間関係まで(ごくわずかな人を除き)全て消去したい衝動に駆られる。歴史上の名作でもなんでもない自作を捨てることに抵抗はない。
表現という、ある意味自分自身を好きに注ぎ込める行為をおこなっていることで、自分自身に飽きが来たのだろう。自分の二次創作の根幹となる某漫画に飽きるということはないのだが。

ただ、「らしさ」を捨てることは容易なことではなく、自分の発想にはどうしても限界がある。それを広げるには、未知で、衝撃的な体験が必要で、そこにはもれなく有形無形の代償を払う義務もセットだ。自分自身のブラッシュアップのために=自分がその時本当にやりたいことをやるために。

表現したい自分、という現状を最低限維持するために、常に何か新しいものを探して動き回る(その体力も失いつつあるにも関わらず)というのは一見矛盾しているようだが、例えば老舗と言われる有名店や伝統技術を伝える名職人などがよく言うのが、
「変わらないために変わり続ける」
という言葉だ。

比べるのも烏滸がましいが、実は根底は似通っているのではないかとも感じる。そうして思い出したのは、「鏡の国のアリス」のエピソードだった。

チェスの国に入り込んだアリスは、赤の女王と出会う。赤の女王は、アリスの手を取って急に走り始める。延々と走り続け、立ち止まってみるとそこは走り始めた場所と全く変わらない。

走り疲れたアリスは「わたしたちの国では、あれだけ走ればどこかほかの場所へ着くのだけど」と言う。

赤の女王は「のろまな国だ、この国では同じ場所にとどまるためには全速力で、他の場所へ行こうと思ったら少なくともその二倍の速さで走らなければならない」。

鏡の国では何もかもがあべこべなので(喉がからからのアリスに赤の女王が差し出したのは水でなくビスケットだった)、赤の女王の言葉も納得の台詞で、ルイス・キャロルがこの台詞に「変わらないために走り続ける」という創作者としての心構えを込めたとも思えない。
ただ、何か新しいものを得たい、そのために体がどこか別のところへ向こうとしている今の自分にとってはなかなかに気になるシーンなのだ。

生命体は、その生命を維持するためにその活動を止めることはない。自分が自覚しなくても、全ての細胞が絶えず動き続けている、そのおかげで自分達は行き長らえて、好きなことを続けていけるのだ。
古くなってしまった自分を捨て、新しい文体を得ようと画策する一方でふつふつと湧き上がってくるのは、絵を描きたいという欲望である。これまでも少しずつ描いてはいたが、絵となると上手下手は一目瞭然であるため、それなりのものを描こうと思えば練習どころか修行が必要だ。そして自分の描きたいものは二次創作の文中で描く某男性である。いま通っている絵の教室は静物画が中心だが、別のスクールで裸夫(裸婦ではない)クロッキーの講座を見つけてしまい悩んでいる。
絵の世界は文章よりも自由度が遥かに高く、表現の可能性は無限だ。ただそこまでに辿り着くまでには膨大な時間が必要だが、「好き」という気持ちが何かを引き起こすはずだ。年齢と反比例して全速力どころか二倍の速さで走ってしまうかもしれない。そしてその頃には、新しい文体を手に入れられるかもしれない。

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