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死についての思索(5)---透明で死にますか・死への努力を開始せよ・あなたの身体、即、根本の神体・「あなたは対象を殺したがっている」

割引あり

今日も私は正直に語らねばならぬ。
正直に語ることは、本当にむつかしいことだ。
「私は、どうやって、いつ、どこで、だれと、死ぬのだろうか?」
ということは、私にとって一番重要な問題である。

そして、もちろん、死の問題は、あなたにとっても重要な問題であるはずだ。なぜなら『あなたも、いつの日か、どこかで、だれかと、どうにかして、その、死、を跨ぎこさなければならない』からである。

私は、死についての問題を過去の文章を引用しながら、加筆的に思索する。
そうして、いわば意図的に、過去の自分を否定的に批評しながら、更なる思索の深みへと向かって、その、在っている、を更新させてゆく。

『加筆とは、人生の方法である。加筆的人生とは、われわれの大半が所有するであろう。われわれは更新をやめられぬ存在者である。われわれは我々自身に対して常に批判を行う主体である。われわれは我々自身を非難はできぬが批判を行うであろう。非難は自己に対する占領であるという点において不可能である。批判は自らにおいて道を切り開く意欲を発見するという点において合理的な視線である』今日もまた別れゆく人々の涙を見た。別れとは死への哀悼である。我々はこの世界に在りながらこの世界に在らぬものとして認識している。死は生の母胎である。我々は死の腹の中に眠る赤子であると理解しなければならない。世界は幻視の連続であり、その連続性が実態のように感じるが、その連続には無限の巨大な隙間が在ると考えなければならないであろう。世界は叙事詩的であり、現実から切り離されている。真に現実は現実主義者の妄想であり、夢想の信心である。この世には現実などは存在しない。死もまた存在しない。死は空間としてアプリオリに在るのである。静止的な世に我々は動的であるのである。時間自体も我々のうちにのみ存在している。時間は存在的である。我々は死に対して口のきけぬ人間である。人間とは死の鑑賞者である。故に人間は悲劇的である。悲劇的人間は超現実の渦中に在る。その人間の精神性は聖化に達しているであろう。ギリシャ悲劇の自殺性は徐々に没してゆく者には理解できぬであろう。凄惨極まる非業の死は今や流行の真逆として消滅しかかっている。今こそ非業が考えられねばならぬ。非業とは常識への離反である。常識とは無規定の社会的世界である。それは単に理性により構成された透明の世界である。あなたは、その透明で、死にますか?

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