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読書感想 芥川龍之介 南京の基督

芥川龍之介の短編小説です。
芥川龍之介ですので、当然、
スッキリ!明朗会計!きっとこういうことが言いたかったんだよね!というわかりやすいお話ではないですよね。

中国は南京に住む15歳の売春婦、宋金花のお話です。貧しい家計のために身を売るような生活をしていますが、信心深い熱心なカトリック教徒です。
金花は梅毒にかかってしまい、客にうつしてはならぬと仕事を休んでいます。

そんななか、外国人の客が家にやってきます。もう客はとっていないと断るのですが、言葉が通じず相手はなかなか諦めません。
そのうちに、宋金花は外国人の姿に基督の面影を見ます。

結局一夜を共にするのですが、朝になり彼女が目覚めると、外国人はお金を支払わないままいなくなっています。
そして、彼女は梅毒が治っていることに気がつくのです。

「蜘蛛の糸」とかは、比較的何を伝えたいのかわかりやすいように思うのですが、この作品の真意は結局どこにあるのでしょうね……。難しいなあ。

「卑しい仕事をしていても、信仰を持ち、正しい心で生きれば救われる」という単純なものでもないような気がするのです。

「神を信じていたら、病気が治ったよ!」という奇跡体験ではなくて、他人に病気をうつして(なんの恨みもない赤の他人を不治の病に至らしめて)病気から逃れるという奇跡体験を設定するあたりが芥川龍之介だなあと思うのです…。

個人により解釈が異なるのは至極当然ですが、この作品は特にこまっかーい解釈の差が出てくるのだろうなあという印象です。



下記は南京の基督とはあんまり関係ないいつもの私の個人的な意見なので、興味のない方はスルーしてくださいね。



「他人にうつさないために客をとらず、貧しいまま静かに亡くなった」というのが神様が一番喜びそうなルートに思えます。
ですが、最近スピリチュアル系の本とかを読んでいて、こういう自己犠牲の精神が一番神様が喜ばないのではないかと思うようになりました。

他人のために、自分さえ我慢すればいいのだと人生を諦めて、我慢して我慢して我慢して、そうすれば報われて天国にいけるのだ、と思いきや案外そうでもないらしいのです。


自分の心を殺すくらいの強い我慢と忍耐は、亡くなったあと恨みと呪いしか残さないらしいです。

そう考えたら、「自分さえ我慢すれば」という自己犠牲は、必要なときもありますけど、ほどほどにしておいた方がいいのかなと思えますね。

目の前に乗り越えられそうにない壁が立ちはだかっていようとも、「面白くなってきやがった」とニヤリと笑い、壁をよじ登るのは無理だから、穴ボコを開ければいいんじゃない?とか、迂回するのはどうだろう?とか
、ひとりじゃ無理だから仲間に助けを求めよう、とか、何か道具を使おう、とか、

発想の転換を持って希望を忘れず少しずつでも前に進むことができる出来る人間が神様に喜ばれるんじゃないかと思います。

真面目で優しい人ほど周りを傷つけたくなくて、自己犠牲を尊い美徳として後生大事に拝んでしまいがちです。でも勇気を出して、自分が幸せになる選択をしてもいいんじゃないかなと思うことがあります。

なぜこんなことを書いているかというと、私も無意識のうちに自己犠牲を美徳としていたのです。でももうやめようと思います。
自己肯定感を育み自分を大切にしようと思います。

(コロナになって、メンタルがセンシティブになってるので、世迷言を書き散らかしてスミマセン……はは。)









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