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自分の言葉の喪失について∼年森瑛『N/A』を読んで∼

私は1年半くらい自分の言葉を喪失した感覚があって、ずっとそのことについて悩んでいた。

だから、言葉を取り戻すために最悪な講座に参加し、メンタルにダメージを負ったりしていた。

↓最悪な講座とはこれのこと

https://note.com/gentle_ferret818/n/n224735e67d0c


でも、この講座でメンタルにダメージを負ったことで自分の言葉探しの方向性が間違っていることがわかり、外部に頼った言葉探しをやめる+今、嫌だと思っているすべてのことをやめ、実家に帰り、休むことで言葉は自然に戻ってきた。


私は「なんで言葉を喪失したのかな~」とずっと考えていたのだが、なんとなく感覚としてはわかるけど、言葉にするのが難しくて、ずっとその感覚のまま放置してた。でも今日、年森瑛さんの「N/A」を読んで私のもやもやした感覚を言葉にしてもらった気がした。


「N/A」のあらすじ(Amazonより)

松井まどか、高校2年生。

うみちゃんと付き合って3か月。

体重計の目盛りはしばらく、40を超えていない。

――「かけがえのない他人」はまだ、見つからない。

優しさと気遣いの定型句に苛立ち、

肉体から言葉を絞り出そうともがく魂を描く、圧巻のデビュー作。


そして、この本の帯には東浩紀さんが

「安易なマイノリティ表現への違和感の表明であり、同時にそのような表明の安易さへの批判でもあるという点で、まさにいま求められる文学なのではないか。」というコメントが書かれていて、まさにそれ(!)ですとなった。


私はこの本を読んで、「私が言葉を喪失したのは勉強したことによって、多様な考え方や自分とは違う様々な状況に置かれている人々の存在を知ったからだ」という結論に達した。

性的マイノリティや人種、障がい者など様々なマイノリティが存在することを知って、勉強するために、本を読んだり、映画を観たり、差別を解消するためにデモに行ったり、マイノリティの立場にある人と話したり、、、。
なんか色々してたら、正解がわからなくなってしまった。

自分もなんらかの面ではマイノリティで、そのことについて他人が理解しているようなことを言ってくるとムカついていたんだけど、まったく理解していないことを言われてもそれはそれで落ち込んで。
そういう自分のマイノリティ性を持っていたから、自分が当事者ではない他のマイノリティ性を持っている人と話すときとかその問題について語るとき、どうやって言葉を選んでいいかわからなくなってしまった。

そうすると自分の口から出てくる言葉は本に書いてあった言葉とか映画で語られた言葉とか、私より頭がいいと思われる(←?)人の言葉の引用しかできなくなってしまった。常に正解を求めていた。


これには自分の自信のなさとか勉強不足とか経験不足とか色んな自分の未熟さから生まれた問題が絡まっていた。(と、思う、、、。)(そして、これらの問題は現在進行形でもある。)


今はやっと言葉を喪失した理由を言葉にすることができるようになったけど、悩んでる最中はまったくわからなくて、とりあえず自分の言葉を伝える方法を学ぼうと苦心していた。

そこで最悪のセミナーに入って(←なんども書いて申し訳ない)圧迫面接を受け、メンタルにダメージは負ったが、
「間違っていることをこんなに堂々と言う人がいるんだ!しかも権力を持ったジジイ!こいつら全員やべぇ!でもこいつらが権力を持ってるってことは社会はこういう奴らを中心に回ってるんだ~やべぇーーー!」という発見をし、私は自分の言葉について考えられる自分であることにちょっと安心したりもした。

そこからパーンと頭が弾けたような感覚になり、すべてがどうでも良くなり、ちょっとの間うつ状態になっていた。

病院に行ったり、実家で休んだりして今はいい感じである。

とにかく言葉が戻ってきたことは嬉しいことだし、なぜ言葉を喪失したのか言語化できたことも嬉しい。
私は休んでいる間、大量に本を読み、映画を観た。自分は外部から影響されて作られるものだから、映画とか本とかの言葉を自分の言葉のように話してもいいのかなと思っている。
あと、私より頭がいいと思われる(←?)人の言葉の引用も笑。

たくさんの言葉をミックスさせたり、その時々によって自分で言葉を選んで出すのはもう自分の言葉であると言ってもいいのだろうか?
まあみんなそうしているのか。自分なりの新たな言葉を生み出してもそれは相手には伝わらないし。


人との関わりって本当に難しすぎる。

みんながどうやって自分の言葉を紡ぎ出して会話をしているのか知りたい。

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