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宮崎駿の圧縮ファイル。/ 焦ってないことはないです。/ おもしろ勘違い君になりたい。【2023年7月22日】


『今日』


汗だくになりながら掃除を済ませた後は、夕方まで小説を書いていた。
早く第一稿を完成させてしまって次の活動に移りたいが、下手をするとお盆くらいまでかかりそうだ。
進捗を数字で表すと、現状では六万四千文字くらい書きあげていて、今日は五千文字くらい書いたが、次の章の流れが固まっていないこともあって筆が止まってしまった。
以前の記事で、プロットに悩んで物語の神秘性や精神性や構造がないことを嘆いたが、少しずつそういう要素も生まれてきているような気がする。
まぁ、諸先輩方と比べるとずいぶん低いレベルのものにはなるんでしょうが、それはもうしょうがない。

『宮崎駿の圧縮ファイル。』(ネタバレなし)


昨日のレイトショーで、宮崎駿の『君たちはどう生きるか』を見てきた。
ネット上のネタバレは見ないように努めてきたが、それでも、「AI宮崎駿が作ったみたいな総集編」というつぶやきをツイッターで見たり、「ホラーなカルト映画」とかいう批評がYoutubeのサムネに書いてあったり、断片的な情報は得てしまっていた。
以下、ネタバレは”ありません”。

すごく個人的な感想だが、僕はこれを「宮崎駿の圧縮ファイル」ではないかと思った。
総集編、という表現も納得できる。
宮崎駿がこれまでの作品で考えてきたこと。
この世界の構造や、人間の精神や、死生観。こういったものをどういうふうに捉えるのか。
宮崎駿がこれまで積み上げてきた世界観を、ギューッと詰め込んで圧縮したら、こんな作品になりました。そんな感じかもしれない。
そういう点では、カルト映画、という表現だって言い得て妙だ。
もしも「宮崎駿教」というカルト宗教があれば、きっとこの映画が最高峰の経典となる。
この映画は「経典」であり「曼荼羅」である。
となれば、分かる人だけ分かればいいし、なんかほんと、すごいですよね、駿さんって。
あと嫁が言っていて面白かったのは、「跡を継ぐ」っていうことに関しては、宮崎駿がジブリに対して思ってることなんじゃないの?っていう感想。

僕には学がないので、あまり多くのモチーフや構造を理解することはできなかったが、それでも不思議な世界観を大いに楽しんだ。
同時に、もっと勉強しなければ、とも思った。
神話とか仏教とかに関わる様々なモチーフがあるような気がしたが、ごく一部しか分からない。
第二次対世界大戦をどのように捉えるか、という部分もあるように思って、その部分はかろうじて理解できたような気がするが、この映画のごく一部の要素でしかないのだろう。
高校とか、大学とか、新社会人の頃とか、世の中の人が勉強している時期になんでサボってたんだろうと、今になって本当に思う。
教養の有る人と無い人では、同じ作品を見ても受け取れるものが違う。
あまつさえ作り手側になったら、それはもう、出来上がるものの面白さは、きっとレベルの違うものになる。

もう一つ余談として思ったのが、宮沢賢治って、やっぱりこの分野ではものすごい先駆者だったのではないかということだった。
宮沢賢治については「銀河鉄道の夜」といくつかの短編を読んだくらいで、あまり詳しい方ではないが、描かれている情景や精神性などには、なんだか似通ったものがあるように感じている。

この映画を見て、酔っ払いの腐った日本語では言語化が難しいが、受けた感銘は確かにある。
映画を見ても小説を読んでも、または日常生活の中にあっても、僕は絶えずものごとを考えるようになって、多くの事柄から感銘を受けている。
これは僕が、下手くそながら創作活動を行うようになって変わったことの一つだ。
そういうふうな成長を積み上げて、そういうふうに少しずつ前進して、そういうふうに、生きていきたい。

『焦ってないわけではないです。』


いま僕がやっている信長の野望関係のYoutubeチャンネル登録者向けの記事なんですが、ゲームもせず、動画も作らず、良く分からん小説を書いてうつつを抜かしてるように思われてる被害妄想をしていて、それはそれで甘んじて受けなければいけない批判なんだけども、別に焦ってないわけではないです。

僕の中では、
⇒小説の第一稿完成
⇒ 信長の野望新生PKの発売に合わせて動画作成(すぐには公開せず、いったん寝かせる)
⇒ 小説の第二稿
⇒ 動画の仕上げ編集・公開
というふうに進めていくつもりだったのだが、しょっぱなから苦戦してスケジュールが遅れている。

『景虎と阿南』(旧題:えちごぐらし)の反省として、「一度完成したものを、時間をおいてから冷静に見つめ直す」ということの重要性を感じている。
作り直して再公開、なんてまどろっこしいことをしないで、初めから練り上げられた状態で見せることが出来ていれば、もっと違ったレベルの面白いものを提供できたのではないか、と。

そしてこれは、「プレイしながら動画を作る」というスタイルでは実現不可能なのである。
プレイ途中では全体の構成が定まらないままに動画を作るはめになるため、どこが伏線になって、どういう話の筋になるかなんて、作者すら分からない。行き当たりばったり以上にはなれないのだ。
旧作「えちごぐらし」では完全にこれにハマってしまって、だから新作では、全編が完成してから動画を投稿しようと思っている。
このことによって、動画投稿のスピード感はきっと無くなることだろう。
おそらくは今回の動画も、すっかり世間の熱が冷めきってから投稿することになるだろうし、そこはもう諦めている。

僕の目標は「面白いものを作る」ことで、十年後に見ても変わらない価値を作ることで、流行の波を追いかけることではない。
これは目標であり、今は達成出来ていない。
しかしいつかは、出来るようになりたい。

あとはもう一つの反省として、やっぱり「どういうものが求められているのか」ということも考えなければいけないんだな、ということを痛感している。
次の作品では、僕なりにではあるが、もっとエンタメ性を入れ込んでみようと思っている。
何の気兼ねもなしにやりたい放題にやれるのは、きっと宮崎駿くらいの大家にならないと出来ないことなんだろう。(こう言うと失礼で、宮崎駿だって世間のことを気にしているのかもしれないが。)

そういうふうに考えながらも、どうせ期待されてることもないんだろうな、というひねくれた気持ちも、それなりにある。
こういう部分、僕はあまり性格の良い人間ではない。

『おもしろ勘違い君になりたい。』


僕はまず、おもしろ勘違い君になろうと思ってnoteを始めた。
自信過剰で、呆れるような感じに失敗していて、この程度の奴がこれぐらい痛々しく失敗してるから、まあ俺は大丈夫だな、と見下して安心する。
そんなコンテンツになれば、それはそれで面白いんではないかと思っていた。
僕はそれなりに痛々しさを自認していたので、行動と心情を曝け出すだけで、そういう面白さが生まれてくるんじゃないかと思っていた。
しかしどうやら、そうも簡単にはいかないらしい。
今のところ僕はただの勘違い君で、それはどちらかというと社会的な害悪である。

ツイッター(最近覗き見のためにアカウントを作った)とかnoteとかで、おもしろ勘違い君の見本になるような人を探しているが、まだ見つけられていない。
「もしもそういうおもしろ勘違い君に心当たりがあったら、教えてください」
って書こうと思ったけど、それは『あなた勘違い君ですよね?』って、面と向かってその人に言うようなことだから、無理だな。

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