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私がアートを好きな理由。

「なんかいい、」のその先へ

「美術館巡りが好きです」「子どもの頃から絵を描いていて」「独学でデザインとか」
自己紹介でそんなことを言うと必ず、「じゃあなんでそっちの業界行かないの?」って必ず聞かれるコンサル志望の就活生、それが私です。

「なぜコンサルなのか」はいったん置いておいて、そんなにアートのことが好きなのになぜ仕事にしたいと思っていないのか、私は何をもってアートを好きと言っているのか、自己分析がてら書き出してみようと思います。

哲学のアウトプット

 アートは、「他人の哲学を、あえて言語化されていない状態で読み取る」ことができる「非言語のコミュニケーションツール」だと思います。

 よく小説なんかで、「心がざらつく」「乾いた笑い」「じっとりとした嫉妬心」といった表現を見ませんか。
「こころ」は目に見えないけど、人間はそこに「質感」を見出します。

「こころ」に限らず、対人関係や自然など、自身を取り巻く環境や社会全体の関係性に対しても「質感」や「位置関係」というのはひとつのテーマになりやすいです。

たとえば、「離れていても愛してる」「禁じられた恋」「近いけど遠い」「儀礼的無関心」などの位置関係に対して、「ドロドロした」「ドライな」などの質感を表す言葉があてがわれるのは自然ですよね。

 対人関係にせよ、社会にせよ、「相手」は現実世界に存在するものの、それを取り巻く関係性や心情を、手に取って確認したり、他人と直接的に共有、交換することはできません。

 しかし、人間は社会的動物なので、その衝動や情動をひとりで胸の内に留めておくことができません。誰かに共有したくて苦しい。寂しい。わかってもらいたい。

 だから、どうやったら今私のなかにあるこの得体の知れない感情を、なるべくそのままの形で外に出してあげられるだろうと、哲学し、様々な表現方法の選択肢からベストな手段を選び抜き、時間をかけて形にしていきます。

 その方法が彫刻であったり、油絵であったり、デジタルアートであったりは様々ですが、いずれも表現したい感情を現実世界に降臨させるために最適だと、作家が判断したツールで作られていく。

 そこに技術や知識が伴うのがプロのアーティストです。なぜ裸の彫刻が評価されるのか。なぜ落書きのような絵がこんなにも絶賛され高額で取引されるのか。

 そこには、「思想や哲学を体現するスキル」への評価があるからです。
 「こんなの、自分にもできる」「何が凄いんだかわからん」という人は、いざ「今自分が思っていることを外側に取り出してみて」と言われて、巨大な彫刻作品を明確な意思やメッセージを持って完成させられるのでしょうか?

 アーティストは哲学者であり、非常に繊細な生き物で、それでいて作品作りに対する素材の物質的な理解や扱い方への造詣が深いのです。アクリル、粘土、木、金属、石膏、紙、陶器…素材が変われば、同じテーマでも全く違う雰囲気や質感を生みます。

 彼らの哲学は、質感を持って世に生み出され、現実世界に佇みます。
 言葉を発するわけでも、そばでアーティストが解説してくれるわけでもない。けれど私たちはその質感や形状、作品が漂わす雰囲気を読み取り、理解しようとする。

 この理解しようとする過程こそが「コミュニケーション」であり、どれだけの長い時間が流れようとも、作品の前に立てばいつでも、アーティストとコミュニケーションを取ることができる。それが一つの、アートの魅力だと思っています。

 また、非言語的コミュニケーションとしてのアートは、「宗教」の視点からも語ることができます。

 自分たちの宗教を、文化や言語の違う人々に広め教義として文化を目指すためにはどうしたらよいか。それが宗教画の役割でもあります。教典をじっくりと読まなくても、その宗教が持つ文化や理念を知ることができる。
アートそのものがコミュニケーションツールとしての機能を果たすわけです。

大いなる歴史の中に、いかに身を置くか

 アートの歴史は長い。「ART」の原義をめぐる議論は様々ですが、単に「芸術」「美術」を表す言葉ではなく、「人の手によって、不自然(というより、NOT 自然)」に生み出されるものだと認識しています。

 蝶の羽の模様や美しい樹木の年輪は「ART」ではなく、大いなる自然の規則のなかでランダムに生まれた事象であり、それを「美しい」と捉えるのは人間の感に過ぎない。

 となると「ART」の対義語は「NATURE」でしょうか。なんだか現代文の評論みたいな話題になってきました。洞窟の壁画にせよ、荘厳な神殿にせよ「人間が意志を持って自然(ゴッドメイド)に手を加えたヒューマンメイドである」と言えます。

 そういう文脈の中で、人間はゴッドメイドをヒューマンメイドに落とし込む作業というのを、長い時間をかけてやってきました。

 自然も、動物も人間もゴッドメイドです。目に見えない神々の姿は「人間」の形に押し込まれました。羽が生えようと半身が獣であろうと、架空の存在を表現するときでさえ「現実世界のパッチワーク」をしている。
 無自覚の「人間の自然界に対する優位性」が見て取れますね。

 しかし、「写真」の台頭は、写実を極めるアートの歴史を揺るがしました。いや、写真でええやーんと。

 じゃあ、絵にしかできないことはなんだろう。人間が生み出すことの意味って何だろう。その追求の先に、印象派がいると思っています。教会や貴族からの注文から解放され、光や色、音の表現ができることに気が付いたわけです。

 上手く描くだけだったら、先代の偉大な画家たちを超えられない。歴史に名を遺す芸術家になるには、新しい芸術表現に常に取り組んでいかなければならなかった。意味発明家だと言えます。

 その「やってみよう!」の精神が、現代アートの面白さなのです。
 哲学を抽出し、無意識を具象化し、視覚から意識を切り離す面白さを知れば、不可解なアートの前に佇む時間が、少しだけ長くなる気がする。

なぜクリエイターにならないのか

 私自身、物を作る人でした。今も絵を描くことは好きだし、モノづくりに没頭している間は時間も忘れて取り組める。夢のような時間です。夢なんです。

 池のほとりでうたた寝をしていたら、自分が蝶になって舞う夢を見た。あまりに自然で、まるで生まれたときからそうだったような感覚になり、目が覚める。本当の私はどちらなのだろうか。私が蝶になったのか、蝶が私になったのか。クリエイターとしての人生は、正に胡蝶の夢で、どちらが正しいのかわかる人は、どこにもいないのです。

 ただ一つ言えるのは、私が感じたこの「アートって面白い!」という気持ちを自分のなかだけに留めて起きたくなかったということです。
人の哲学に触れ、考察し、受け止めること。純粋な面白さと、多様性の理解、どちらも人生には必要なエッセンスです。

 自分の思考世界を外側に抽出する作業もまた、自己理解の大切なプロセスです。醜い感情も形にしてみたら、その武骨さが愛おしく思える日が来るかもしれません。次のステージに進むためのマイルストーンを置くことで、苦しみを乗り越えられるかもしれない。一種のセラピー的側面があります。

 そういう、アートが人に及ぼす影響だったり、心理療法的な効用だったりの活用に着目すると、自分の立ち位置として、それを広める役割を担いたいな、と思うようになりました。

 公教育の授業からアプローチするもよし、身近なアートイベントを開催するもよし。アートを通じて哲学対話することをもっとたくさんの人に知ってもらいたい。まだまだ柔らかい脳を持つ子どもたちが芸術に触れる機会を増やしたい。

 そんな思いで、公共経営系のコンサルタントや教育系コンテンツの制作会社で働くために、ただいま絶賛就活中というわけでした。

長々と読んでいただきありがとうございました。

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