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私という人 ~自分を変えよう~

私の父は都会生まれ

母は田舎生まれでした。

母は地元を離れ都会へ就職し

父と出会ったそうです。

夏の暑い日の午前9時半頃

元気な産声をあげ

私は誕生しました。

「退院する日に院長先生が車まで

あなたを抱っこしてくれたのよ」と

幼い頃から

誕生日には必ずと言って良いほど

母に聞かされてきました。

平凡な家庭の子供なのに?

わざわざ院長先生が?

どうして?

疑うわけではありませんが

ある時とても気になったので

父に聞いてみたところ

特別な待遇ではなく

小さな産院の院長先生が

退院する赤ちゃんを見送る

当たり前の光景だったと

教えてくれました。

母はなぜ特別だったような

話し方をしたのでしょうね。

幼少期の話は

あまり聞いたことがないので

薄い記憶を呼び戻そうと思います。

『はじめてのおつかい』を体験。

テレビで放送されているような

見守りはなく

一人で買い物をしました。

任務を任された喜びが大きく

ルンルンな気分だった事を

覚えています。

そんな都会で生活するのも

たったの六年間。

私が幼稚園を卒園したあと

母の地元へ引っ越しをしたのです。

幼い頃は積極性がなく

内気な性格だったので

小学一年生で

クラスの子たちが楽しく

遊ぶなかで私はその輪に入れず

御一人様小学生となり

六年間の生活の中で友達との

楽しかった記憶は

ほとんどありません。

とはいえ、クラスメートから

私が塞ぎ込んでしまうような

悲しい事をされた記憶は

思い出せないです。


私は御一人様だった小学時代を

学習できなかったようです。

物静かな性格のまま

中学へ上がりました。

環境が変わることはなく

やはり三年間で友達と呼べる人を

作ることはできませんでした。

それに加えて

中学生ともなれば誰かを標的にしたいと

考えてしまう年頃。

私は丁度よかったのでしょう。

良い的となってしまいましたね。

呼び出され身体的な苦痛を

受けることはありませんでしたが

教科書や体操着、カバンはズタズタ

帰宅時に上靴はなく

靴があっても画鋲が仕込まれている。

登校時には机に菊の花が生けられ

人を貶める言葉の数々が

黒板いっぱいに

書き込まれている日もありました。

体育の時間は先生と組み

科学実験もいつも一人

文化祭や体育祭などのグループに

入ることもできず。

精神崩壊寸前でした。

あまりにも辛く苦しく

気づくと手首から流血を

していました。

無意識に

自ら絶とうとしていたのでしょう。

あの時そのまま身が軽く

なってしまっていたら

いまの私の幸せは

存在するものでは

ありませんでした。

私は高校へ入学するにあたり

過去の九年間で楽しい

思い出がなかったことを

振り返りました。

ここで変わらなければいけない!

とようやく決心する事となるのです。


・・・・・・・・・続く

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