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2022年8月1日(月)ワルシャワ蜂起記念日 / "Narodowy Dzień Pamięci Powstania Warszawskiego"に捧げるプレイリスト

参考資料:

引用:『1944年8月1日、ドイツ占領下にあったワルシャワで、ポーランド国内軍と市民による武装蜂起を記念する日です。』

凄惨な『ポーランド分割』の概要

思えば、ポーランドほど、複数回にわたる「亡国の憂き目」に遭遇した国家も少ないであろう。
3度にわたり、周辺の列強国(ロマノフ朝ロシア帝国・ブランデンブルク朝プロイセン王国、ハプスブルク朝オーストリア帝国)により、彼らの利己的極まりない理由で、ポーランドの領土が勝手に「分割」され、第三回目の分割であった1795年をもって、ポーランドという国家が、世界地図から文字通り「抹消」されたのである。

第二共和制での復活

そんな中、ポーランドがおよそ120年ぶりに「復活」する、近代ヨーロッパ世界の一大転換点が訪れた。
かの「第一次世界大戦(WWⅠ)の終結における、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー二重帝国、ロシア帝国の崩壊」である。
当時、ポーランドの実質的リーダーであったユゼフ・ピウスツキが、このチャンスを逃すはずはなかった。ドイツ革命に乗じてワルシャワ入りし、ポーランド第二共和国国家元首となった。1918年11月のことである。
消滅年の1795年から、足掛け123年が経過して、ようやくポーランドに再度、明るい陽光が射したのであった。

ナチス=ドイツに蹂躙された国家

比較的穏やかで平和、と評された、ピウスツキの独裁政権時代「サナツィア」が終焉を迎える頃、西側のドイツでは、ヒトラーのナチス一党独裁政権が成立した(1933年1月30日)。
そして、「宥和政策」等で何とか、ヒトラーの野望を満たそうと手をこまねいていた、英仏等の自由主義国体制の列強も、ヒトラーの周到・かつ執拗な外交戦・軍事戦の前に、脆くも飲み込まれていった。
1939年9月1日、ナチス=ドイツが、ポーランドに軍事侵攻するに至り、再びヨーロッパの地で世界大戦が勃発する(第二次世界大戦、WWⅡ)。
およそ一か月という「電撃戦」で、ナチス=ドイツ軍はポーランド全土を掌握した(同年10月1日)。ここで4度、またしてもポーランドは「消失」したのである。
(※なお、この「消失」には、事前交渉をポーランド側が拒否した、同国の東側に成立していた、ソビエト連邦も関わっている)
そして、そのナチス=ドイツによる占領時代のさなかに、首都ワルシャワの市民が武装蜂起を決行したのが、今回のテーマである『ワルシャワ蜂起』となるのである。
英国ロンドンに置かれていた、当時のポーランド亡命政府や、ポーランド国内の蜂起軍は、連合国側であるイギリスやソビエト連邦に蜂起軍への軍事支援を申し出たが、これらの国々は無下に、蜂起軍を「見殺し」にする判断を下した。
当然、蜂起失敗の見せしめとして、『ヒトラー本人の命により、ワルシャワは徹底した破壊にさらされ、蜂起参加者はテロリストとされ、レジスタンス・市民を合わせて約22万人が戦死・処刑で死亡したと言われた(引用)』そうだ。
1945年4月、東はソビエト赤軍、西は英米仏連合軍からの両翼からによる攻撃に耐えきれなくなったナチス政権は崩壊し、その渦中でヒトラーは愛人のエヴァ・ブラウンとともに、ベルリンの総理官邸の地下室で自殺する(1945年4月30日)。
ナチス=ドイツが正式に降伏するのは、そのおよそ10日後の5月9日のことであった。

第三共和政(社会主義政権成立から民主化へ)

1952年、ポーランドは東側のソビエト連邦の政治的影響を色濃く受けた「社会主義政権」として、再度の独立を果たす。ただ、独立とはいっても、実際はソビエトの社会主義衛星国に過ぎず、政治体制もポーランド統一労働者党(共産党)による一党独裁体制であった。
1970年代になると、民主化のうねりが起こり、「共産主義政権打倒」のなかで、レフ・ヴァウェンサ(日本では「ワレサ」の呼称で通っている)等の、革命の闘志が胎動していった。
そして1989年、折からの東欧各国での民主化革命の波の中、ヤルゼルスキ率いる社会主義政権は打倒され、第三共和政ポーランド共和国が成立し、1990年の国民投票の結果、ヴァウェンサが初代大統領に就任する。
その後は着実に、堅実な民主共和政国家の建設の道を歩み、

1999年、NATOに加盟。2004年、EUに加盟。

となり、現在に至るのである。

(終筆!ご精読ありがとうございました。)

公式サウンドトラック


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