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夏に散った医学生志望の秀才女子高生~死してなお、希死念慮から救ってくれた人

序文

毎年、盛夏の8月が近づくと、夏休み中のバイク事故で星になった、ある同級生を思い出す。
彼女が亡くなって、もう20年以上になるが、追悼の意味もかねて、今回記事にしてみることにした。

白眉の「才媛」Eさん

中学3年生の時、ある縁で「少年と親の主張・県大会」に出場した。
当大会では「優良賞」だったのだが、その席で、隣接市町村のEさんという他校から選抜された女子と同じ地域ブロックからの受賞になった。
医学生志望の、大変に優秀な才媛である。弁論大会の中では、「体力・知力が弱って認知症になってしまった、大好きな曾祖母のために、将来は認知症専門の精神科医になりたい」と、希望に満ち溢れたスピーチをしていた、キラキラと眩しい女子中学生だった。

高校受験で相見える

そんなEさんと、なんとキャットは、高校受験でライバルになった。
当時は「パーセント条項」という規定が私の県の公立高校にはあり、情勢はEさん側の方が、圧倒的に不利だった。
しかし、キャットも合格はしたのだが、Eさんも楽々と合格・入学を決めてしまった。
彼女が筋金入りの「秀才」であることを、ここでも痛感させられた。
あの才女と同じ学校・学年で、高校生活を送ることができるのは、キャットも大変楽しみにしていた。「切磋琢磨」の極みである。

数学が出来ない

しかし、そんなEさんにも、決定的なアキレス腱があった。理系なのに「数学が苦手」だったのである。
キャットも1年次の成績がダメダメで、2年次の選抜制数学クラスは、Eさんと同じ、エントリークラスに配属された。
そんな中でも、Eさんは確かに、弓道部での部活と学業を両立させ、一生懸命に高校生活を送っていた。隣村のご実家から長距離の通学をしながら、である。
キャットより「頑張っている」のは、明らかであった。

突然に訪れた「今生の別れ」

2001年の夏休み、当時高校2年生だった私は、勉強のピッチも上がらず、気になる異性を誘うこともかなわず、悶々とした日々を過ごしていた(断っておくが、これは決して渦中のEさんのことではない)。
高校3年生の前だったので、自由に過ごせる高校時代では、最後の夏だったのに、である。
無為に過ごした夏休みも盆に近くなり、部屋にいると、母が駆け込んできて、「高校から緊急電話なんだけど、Eさんがバイク事故で亡くなったそうだよ」との一報を私に告げた。
自身のご家族の制止を振り切って、友人と「隣県の海での朝焼けが見たい」と、夜中にバイク二人乗りで飛び出し、県境に差し掛かったあたりで事故に遭い、友人共々絶命した、というのが顛末だそうだ…。秀才過ぎるEさんが、なぜそんな残念極まりない最期の迎え方で逝ってしまったのか。
私は、高校でのいじめで病み気味だったため、最初は彼女の急死が全く信じられなかった。悲し過ぎて、告別式に参列して、最期のお別れを伝えることも出来なかった。
当然、現在に至るまで墓参すら出来ていない。無念のままに亡くなった戦友に対して何とか、哀悼の意を伝えたいし、そうするべきだと思うのだが、どうしてもその場所を見つけられないのだ。

自身のメンブレと病み堕ち

キャット自身も、夏休み後に学校へ戻ったが、クラス内の男子からのいじめは酷くなる一方だった。
夏休み明け試験の後には数日、「不登校」状態も経験した。それほど、事態は切迫していたのである。クラス担任にも話し、実態は把握して頂いたが、キャットを妬むアイツらは、それで素直にいじめを止めるようなタマではなかった。
心の拠り所だった部活動でも嫌がらせを受け、もうこれ以上、高校に通学して勉学するのは、キャットには無理だった。メンタルが病み初めていたので、当然成績も下降傾向であった。

診断と入院

年が明けて、2月に入ると、高校に通学して勉学をするのは、もう明らかに困難な状態になっていた。
当時は知識が皆無なので自分でも全く分からなかったが、典型的な「陽性症状」での言動も増えてきた(昼夜逆転、友人や両親との諍い、奇妙な儀式的言動等)。
これ以上は詳しく記述できないが、春を迎えた同年4月、保護されて診断名が付いたので、ついに専門病棟に入院することになった。華の高校3年生になるはずの春の盛りであった…。

入院生活の中での光明

入院生活開始後の約10日間は、全く記憶が無い。それほど、急性症状を抑えるための薬剤の投与が大量であったのだろう。
しかし、入院生活も全て辛いことばかりか、といえば必ずしもそうでは無かった。
同年代の同じ疾患の罹患者フレンズも数多く入院しており、彼ら・彼女らとは常に励まし合う中だった。
『「優しすぎるから」、「繊細すぎるから」、「優秀すぎるから」、
心を病んでしまったんだね…。』
そのように真面目に、自身の過酷な人生と、限界病棟で必死に向き合う罹患者ばかりだった。
また、症状が一般会話が出来る程度に落ち着いてくると、看護師の女性陣が、丁寧にキャットからの相談を傾聴して下さった。
そんな中、今から振り返ると大変に幸運なことなのだが、もしかしたら入院以降に発生していたかも知れない、ある深刻な症状が、全く発生しなかったのだ。
あの大変厄介で、メンタル患者にとっては最大の恐怖である『希死念慮』である。

映画『風立ちぬ』を視聴して

その後、再入院こそあったものの順調に治療を継続し、高校での2年間の留年の後、地元の公立大学を無事に卒業した。
就職でも障害者であるため、大きな困難があったが、自身の奮闘と周辺からの支援のおかげで、何とかある程度の契約社員の障害者雇用には就職できた。
そんな就職後の、2013年にあるアニメ映画が公開された。宮崎駿監督作品のジブリ映画『風立ちぬ』である。

~あらすじ~
群馬県からの上京後、東京帝国大工学部を主席で卒業し、三菱内燃機製造(当時、後の三菱重工業)への就職を決め、稀代の名戦闘機「零式艦上戦闘機(零戦)」を生み出した先人「堀越次郎」をモデルとした、彼の栄光と挫折の物語だ。
作品の中で、彼は生涯の伴侶「菜穂子さん」に、信州の高級避暑地・軽井沢で運命的に再会し、結婚を果たすのだが、彼女にはある悲劇的な持病があった。当時、不治の病と恐れられていた「肺結核」である。
菜穂子も必死に自身の病気と対峙し、社会と隔絶された東信・小諸の結核サナトリウムにまで入院して、根治させようとするのだが…、
残酷にも、運命の神様は、彼女には微笑んではくれなかった。
お内儀が身罷った後、さらに残酷な運命が、主人公の次郎にも襲いかかろうとしていた。

参考音像

作詞:野村俊夫
作曲:古関裕而
歌唱:伊藤久男
による、国策軍歌『嗚呼神風特別攻撃隊』
昭和19(1944)年10月発表

次郎自身が、あれだけ苦心して作り上げた「零戦」が、日本軍の海外各地での敗走と、様々な軍需物資不足により、「神風特別攻撃隊」での「体当たり攻撃」に使われるようになったのである。
自身が研究・開発した機体に搭乗した、未来ある若者が次々と「特攻」で、機体共々命を落としていく…。技術者にとって、これほど残酷さに満ちた仕打ちがあるだろうか。
敗戦後、次郎は良心の呵責を感じ、「自死」の選択肢まで真剣に考えるようになった。
しかし、そんな中、亡くなった最愛の妻「菜穂子さん」が、打ちひしがれた次郎の夢枕に立つ。
「あなたは、生きて…。あなたと添い遂げられなかった、私の分まで…。あなたまで、こちらに来ては、まだダメなの!お願い!」と。
この言葉を聞けたおかげで、主人公は我に返り、戦後も強く生き抜いたのである。
~中略あり~


この瞬間、私もハッとさせられたことがあった。
つまり、「Eさんが(恋仲ではなかったが)、罹患する前から、不慮の交通事故で旅立って以降、菜穂子さんと同じ事を、キャットに対して向こうから告げて、ずっとエールを送り続けていてくれていたのではないか」、と。
事実、同級生・同窓生で同じ疾病に罹患した友人・先輩も山ほどいたが、キャットと違い、『希死念慮』症状の強く出ていた方も少なからず存在した。
SNS等でも頻繁に、この四文字関連のツイート・投稿を見かける。


まとめ

まだ、「寛解」の状態でしか無いため、たまにメンブレしたり、友人や家族との諍いもあるにはあるが、社会生活もお仕事も安定的に継続し、趣味の世界も、自分の所得が許す範囲内で、ある程度は満喫できている。
高校の同級生等のように一律に上京しなくても、大学や職場で、数々の尊敬する上司・先輩・友人・同期・後輩等に出会えた。
高校3年(17歳)にして、メンタルハンディを負ったのは確かに不幸だ、という指摘は、甘んじて受ける。
しかし、たとえ年収等が健常者のそれに届かなくても、キャットは今現在の生活が一番、今までの人生の中で楽しさや生きがいを感じている。
やはり『希死念慮』が発生せずに治療に集中できた、と言う意味は非常に大きい。
20年前に逝ってなお、生き抜くためのエールを、今を生きるキャットに送ってくれるEさんは、本当に尊い存在だ。
もしキャットが生き長らえた命を、みすみす自ら無駄にするような真似をしたら、Eさんは、キャットがもし黄泉の国に行ったとしても、彼女と同じ天国へは迎えてはくれないだろう。
そのためにも、Eさんからのエールに恥じぬような、日向の人生を、キャットもこれからも今まで通り、前を向いて歩んでいきたい。

(終筆。ご精読、ありがとうございました。)

公式サウンドトラック

サウンドトラックのようなものもコンパイルしてみましたので、
もしよろしかったら、こちらもご一聴下さい。

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