短編「プリン・ア・ラ・モード」
「父親の死体を棄てにいく」参加作品
幻ノ月音 ( @moon61226676 )
黒田八束さん( @K_yatsuka )による企画、カクヨムのイベントですが、noteに掲載させて頂きました。
※(注意)家庭内暴力に関する表現があります。
「あなたたちのお父さんとお母さんはね、なにもあなたたちが嫌いだから叱るんじゃないんです。あなたたちのことを愛しているから怒るんです」
私が小学二年生のとき、担任の先生が小さな椅子に座る私たちと目を合わせながら真剣な顔でそう言った。笑顔で、優しい声で、心からそう思っているという風に。それが私にとって残酷な問いになるとも知らずに。何の授業のときだったのか、今は思い出せない。ホームルームの時間だったのかもしれない。私は、そうか、お父さんは私が憎いから怒るんじゃないんだなと思い、その気持ちのまま父が仕事から帰って来るなり聞いてしまった。
「ねぇ、お父さん。お父さんは、私のことを愛してるから叱るの?」
と。私は、疑わなかった。「YES」以外の言葉が返ってくることを。期待に胸をふくらませた私は、父の顔を真っ直ぐ見上げて答えを待った。
「そんなわけないだろっ。嫌いだからだ」
硬い野球ボールが顔面に当たったとしても、ここまで痛くないんじゃないかと思う。ガツン!と、からだ全体に響くような痛みだった。あの日の痛みを思い出すたびに、私は心臓を握りつぶされているようなジクジクとした痛みが沸いて疼き、胸が圧迫されて苦しくなる。喉元に手をやり、自分が呼吸していることを確認する。
あのとき私は、そんな父に対して泣いたり反論したりはしなかったと思う。ただ幼かった私は「ああ、そうなんだ」と事実を知っただけだった。
父と母は、私が物心つくころからすでに不仲だった。笑って会話をしていた記憶がほとんどない。
私が二階にある自分の部屋のドアを閉めた瞬間から二人の喧嘩が始まる。ほぼ毎日のように繰り返される罵詈雑言や物を壊す音など、ドアを閉め切っても聞こえてくる怒鳴り声に、次第に麻痺して怯えるよりもただ無視するようになった。繰り返された荒波は、当たり前の日常になる。私は関係ない、私はなにも分からないと蓋をして。私はそのたびに首が痒くて仕方がなくなる。かきすぎた肌はアトピーで赤くなり、より汚くなった。
母は父が仕事でいなくなると、よく私に愚痴をこぼした。そして決まって最後に「あなたはまだ小さいから分からないよね」とブツンと締めくくられる。幼少期、私の睡眠時のBGMが両親の喧嘩する声だなんて、最悪すぎる。
それでも母は、父を立てることが多かった。
私が風邪を引いた日のこと。朝から具合が悪く、頭痛と吐き気に襲われていた。学校は無理だ、休みたいと私は朝ご飯の準備をしていた母にそう言った。
「お父さんに許可をとりなさい」
なぜ学校を休むのに父をの許可を得なければならないのか、そのときはまだそんな疑問を持たずに「わかった」と重い気持ちで父のところへ行った。トイレから出てきた父に「気持ち悪いから学校を休みたい」と伝えると、父は「はぁ?」と声を尖らせて、私を見下ろした。
「学校に行きもしないで、具合が悪いだなんていうな。学校へまず行ってから判断しろ。行く前に休むことを考えるな。先生に判断してもらうまでは帰って来るな。熱なんてのは、気の迷いだ」
本気でそう思っているのだろう。
「俺は39℃以上の熱が出ても仕事に行ったんだ。弱音なんか吐くな。気が弱いから風邪なんか引くんだよ。ホラッ今だって立ててるじゃないか」
私は諦めて学校へ行った。そして教室に辿り着く前に、廊下でしゃがみ込んでいるところを校務員のおばさんに見つけてもらってそのまま保健室へ行った。泣きながら吐いた私は、ぐちゃぐちゃの顔をして、弱い自分の体を憎んだ。1、2時間で学校から帰ったら、また何を言われるか分からない。お昼の時間まで保健室のベッドで横になって耐えることしかできなかった。
きっと父は、私が家にいるのが嫌だったのだろう。あの日の父は、シフトが休みの日だったのだ。今ならよく見える。
私は幼い頃から胃腸が弱く、よく吐く子だった。その日以外にも、よく気持ち悪くなっては学校へ行き、授業を受け、実際吐くまで帰ってこれなかった。嘘をつくとか先生に相談するなんて、そんな知恵もないころだった。父の言葉の通り、弱い自分が悪いんだと思い、そんな日を何度も繰り返した。家で寝込んでいるときも、父が看病をすることはなく、感染るのが困ると言って、忌避するように私の部屋には絶対近づかなかった。そして、
「弱いのはお前に似たからだ」「男の子だったらよかったのに」
ドア越しでも聞こえるような大きな声で、母を一方的になじっているのが常だ。
トイレに行くのが間に合わず、父が見ている前で廊下にゲロを吐いてしまったときは、「汚ねーな」とまるで私が汚物そのものであるかのように顔を歪ませて離れていった。「ごめんなさい」と謝った私の掠れた声は、きっと届いてない。寂しいとか、悔しいとかはない。ただ、申し訳ないという謝罪の思いとむなしさが混ざり合った気持ちで下を向くしかなかった。それでも私は一人じゃなかったから。
ゲロまみれの私の顔を、母が手拭いで優しくぬぐい、床の汚物も丁寧に掃除してくれた。私は、父の背を見てばかりで気づかなかったけれど、ずっと父に背を向けていたのは、母の方だったのかもしれない。
父がプリン・ア・ラ・モードを買ってきたのは、決まって母がいない日だった。午後の夕飯前までの時間、母は車で10分ほどのところにあるフラワーアレジメントの教室に週に一度ほど通っていた。私が五年生くらいのころは、もはや夫婦間に会話は全くなく、私も友だちと遊んでばかりいたが、夕飯前のいっときだけ父と二人だけになる時間があった。その頃は、父はほとんど愛人の家に移り住んでおり、顔を見せるのは月に一度程度だった。
その母がいない時間帯に白いコンビニの袋を携えて、テーブルで勉強をするふりをしている私の前にガサリと置く。私が反応するより早く、父は「好きだろ。お前の歳のころはいくらでも腹減るんだ。食べろよ」と、猫なで声で言うのに私は「ありがとう」と、無理につくった笑顔で受け取った。それが半年ほど繰り返された。あの頃は、父と母の離婚調停の真っ最中だった。女が別にいること、家に金を入れないこと、母に暴力を振っていたことが、このプリンで帳消しになるとでも思っていたのだろうか?甘いもので私の機嫌取りをしている、なんともまぁ滑稽で呆れてしまう。それで私の父に対する印象が改善すると思っていることにも、プリンが好きだと思われていることも。痛みで震えていた私の体は、いつのまにか心の中の嘲りで揺れている。私が好きなのはヨーグルトだ。カラフルなフルーツグラノーラを混ぜたグラニュー糖入りの甘いヨーグルト、風邪を引くたびに胃腸が弱い私のために、母が栄養を考えて出してくれた。生クリームや生の果物を食べるとすぐにお腹が痛くなってしまう。それでも、果物と生クリームがたくさんのったプリンアラモードを父を恐れて何度も口にした。そして、決まって翌日には腹痛を起こしてしまう。そんな自分勝手な父の機嫌取りに嫌気が差して、一度だけ「いらない」と言ってみたことがある。父は、「あっそ」と素っ気なく言って、ビニール袋ごと台所のゴミ箱へと捨てた。中身の詰まったパッケージがひしゃげるとともに、ガゴンッと重く派手な音を鳴らし、能面になった父は、無言で家を出て行く。まただ。体が硬直して、持っていたシャープペンを握りしめたまま、私は息を止めていた。あの人が去ってから10分後、私は浅くゆっくり呼吸を整えて立ち上がる。そして、ゴミ箱にあるプリンアラモードの入ったビニール袋を持ち上げて自分の部屋へ行き、押し入れへと隠した。食べたときも、食べなかったときも、いつもそうしていた。母に知られたくなかったから。母がこれ以上傷つかないよいにと。
学校の通学時の朝に、鞄へ隠しながらそれを持ち出し公園のゴミ箱にいつも捨てていた。ひしゃげてしまった透明なプラスチックのカップの中身は生クリームが溶けており、サクランボやキュウイ、メロンやミカンなどが黄色いプリンと混ざり合ってしまい原型が分からない。まるで、私たち家族のようなそれを、きっちり結んだビニール袋ごと網のゴミ箱の奥深くに押し込む。見えなくなったことにホッとして、それでも食べ物を捨てることへの後ろめたさから「ごめんなさい」と呟いて、そこから私は背を向けて走る。そのときにはもう気づいていた。自分は隠したり、守ったりできることを。そして拒否をすることも、走ることもできるんだと。
父が、私の知らないところで呆気なく死んだ。
コロナ禍中に体調不良にも関わらず、病院へ行くことを拒んだ父は、背中の痛みをただの腰痛だとして放置したまま悪化させ、先延ばしにしているうちに身動きができないところまできてやっと総合病院へ行った。すい臓ガンだった。半年もしないで死んだ。
母と父は、私が中学に上る前に離婚していた。
怒鳴り声がない睡眠時間によって、私は胃腸の不調が劇的に減っていった。単純なことだったんだ。
父の死は、母の知人が教えてくれた。確か母の職場の人だったと思う。それは楽しそうに、父の死を。
私たちは、元から父がいなかったものとして話題にも出さず、震災を乗り越えたあと、母は日々保険のセールス員として忙しく働き、私も高校、大学と受験に勉強に一心不乱だったから、あの男に対してはもはや無関心だった。隣町に引っ越して、愛人と生まれたばかりの男の子と暮らしているというのを聞いても、なんの感慨も浮かばず、ただ随分と図太い人間だなぁと思っただけだ。
なんとなく、目に浮かぶ。愛人に乞われて言われるまま一軒家を建て、お洒落なカフェをオープンする。あの男は思っているだろう。始めから、私たち二人はいなかった。自分は新しい人生を出発させたのだと。あの男が、ゴミ箱の奥深くに捨てたのは、なんだったのだろうか。
私は無意識に首へ手をあてる。
違う記憶、もっと奥深く、もっと幼いころだ。
父の顔が間近にある。泣いている私は突然、泣き止んだ。
弁護士から電話が来たのは、そんな夢を見た日だった。相続人になっているという。
「ああ、そうか。そうなんだ。私はまだ、あの男を父と呼ばなければならないのか。娘と思わなければいけないのか」
誰ともなく呟いた。
相続について話したいから一度、こちらに来てくれないかと言う。私が、あの男の元へ。
めんどうだなと思ったのが最初の気持ち。やっと就職の内定も決まり、締め切り間近のレポート作りに忙殺されていた。こんなことに時間を割かなければいけないのが嫌だった。けれど見たかった。あの男の末路、住処、そして選んだ家族を。あの男の余韻を残す家や再婚相手、義理の弟に会ったら、あの男の顔を思い出したらまた、体が硬直してしまうかもしれない。でも、しないかもしれない。それを知りたい。
母は遺影の写真すら顔を見たくないと言っていたので、私一人で行くことにした。
約束の日なんてつくらない。私は、居ても立っても居られず、翌日すぐにあの男の家へとタクシーで向かった。喪服は持っていなかったので、黒のリクルートスーツに黒のブラウスを着て誤魔化し、母から借りたガバガバのパンプスを履いて。
タクシーで二十分のところにその家はあった。十年ほどしか経っていない住居兼カフェは、思ったより狭く、おしゃれのつもりで壁に這わせた夏蔦の葉がカラカラにやせ細り、白壁は黄ばみ土煙で汚れていた。幹線道路のすぐ近くにあり、大型ダンプや乗用車がひっきりなしに通り過ぎる。うるさくて、臭くて、埋もれてしまう場所。連日続いていた雨が上がり、空は青く澄んでいるのに、そこだけは無風でどこか寂寞としていた。閉店中の看板を下げたままの喫茶店の扉の前を通り過ぎて、裏にある玄関へ向かう。インターホンを押すのに一瞬の躊躇。私はまだちゃんと立てている、体は動く、思っていたよりも緊張はしていない、そう独り言ちて深呼吸をして、インターホンを鳴らす。かすかに聞こえたチャイムは頼りなく消えた。屋内の者に聞こえているのだろうか?息苦しく感じて、ブラウスの首元のボタンを外す。
そのとき突然、玄関の扉が開いた。
「どちら様でしょう?」
出てきた女は私の顔を見て、訝しげに眉間に皺を刻む。やけに唇が赤く見え、薄暗い廊下に立つ中でそこだけが特に際立っていた。
そうか、相手は私のことを知らないのか、と気づいたと同時に「この度はお悔やみを申し上げます」とお辞儀をした。
「突然の訪問、申し訳ありません。前の職場でお世話になった者です。お線香をあげさせていただけませんか?」 スラスラと嘘が出てきた自分に驚いた。このままいけると大胆な気持ちにもなる。
「そうですか……」
焼香に訪ねてくる客を一人一人確認するのも億劫になったのだろう、深く詮索されずに通してくれた。着崩れた普段着を直すこともなく彼女はゆっくりと仏間へと歩く。
あの男は家族には冷たかったが、外面はよく、たくさんの友人や知人に慕われていた。別れたことを知らずに同級生の親が、父に悩みを聞いてもらって助かったと話しているのを聞いて、人違いだろうと何度も思い、うちに誰かが来るたびに私は部屋に隠れてやり過ごした。
四十九日まであと一週間ほどの仏壇は、骨壺の周りを覆うように菊の花が華々しく飾り立てられ、お菓子や来訪者のお供えものなどで八畳ほどの部屋が手狭になっていた。
母から教わった形ばかりの礼儀作法をしながらお焼香をして手を合わせる。そして、振り返って後ろにいた女性を改めて見た。部屋に吊るされていた風鈴の音が二人の沈黙を埋める。私が夫の娘だと知っていたら、部屋に上げたのだろうか。前の妻との間にできた娘の存在は、彼女にとって私以上に面倒な存在なんだと思う。どうしようか、話そうか……。
「あの……実は、」
「なぁオカン、俺のスニーカーどこ?」
突然の声に驚いて振り返ると、開けっ放しだった襖の入口に中学指定ジャージを着た少年が立っていた。
「お客さんがたくさん来るから、邪魔になって靴箱にしまったの」
「いや、だからないんだって」
「ええ?あるはずよ。ちょっと待って、こんなときにどこ行くの?いい、私が出すから」
「いいよ、客いんだろ?」
「いい、私が出すから。グチャグチャにされたらたまったもんじゃない。すみません、ちょっと失礼します」
お辞儀をして彼女が少年とともに部屋を出て行った。いいよ、出すわよ、いいよ、ダメ私が出すから……の応酬に呆気にとられたまま、部屋に一人取り残される。
彼らには、私がどう見えているのだろう?
ここに来るまでいろいろ考えていた。馬鹿になって泣き喚き暴れようか、わがままで、欲深く、憎たらしい女になって、「相続は放棄しない」とはっきり宣言してしまおうか。ひやかしのつもりだった。想像していたのは掻き乱す側になれたという優越感。
ガタン、ゴトッと玄関の方からまだ騒ぎ立てる音がする。
女は小太りで四十歳くらい、汗で背中にシャツが張り付いていた。赤みが強いブラウンの髪はミディアムで、崩れてしまったファンデーションの代わりに口紅だけが赤く艷やかだった。初対面のときは、それが見栄を張っているようでけばけばしく不快に感じたが、もしかしたら顔色が悪いのを誤魔化すために、明るい色の口紅を付けていただけなのかもしれないことに気づく。青柳色の中学ジャージを着た少年は、雑な言葉とは裏腹に声はハッキリと明瞭で、荒んだようには見えなかった。体は小さく、金髪の襟足と目を隠すほど長く伸ばした髪が無造作に肩にかかっている。晩夏といえど、今日も真夏日で暑いはずなのに、ダレた様子はなく出かけようとしている。
遺影に顔を戻した。そこには私と母を捨てた男の顔があった。
私は見たい彼らを見ていただけなのかもしれない。
正面を向いた遺影の男は、私の記憶よりも白髪が多く顔が小さい。メガネはほとんど変わっていないように見えるが、いくらか目尻が下がったようにも感じる。私は彼を恐れていた。
「いらない」
あの日捨てられたプリンアラモードを思い出す。そして、その後にあったことも。
クリスマス当日の朝も一階から両親の喧嘩の声がしていた。そのうち、ドカドカと荒々しく階段を上ってくる足音。私の部屋のドアがノックもなしに唐突に開け放たれて、少し大きめのビニール袋をベットに放り投げてきた。寝た振りをしていた私は、父がいなくなってから、のそりと起きて何が入っているのかと中を改めると、スーパーの割り引きシールがついたままのお菓子の詰め合わせが入っていた。幼児が食べるようなものばかりで、取り出さずにそっと袋を綴じる。私はもう六年生だった。サンタさんを信じてはいなかったけれど、それ以上に私は父親を信じていなかった。会ったのは、あの日が最後だ。
私は立ち上がって骨壺の前に行く。骨壺を覆う布を外して陶器の蓋をそっと開け、適当に掴んでそれをポケットに入れた。なんとか体裁を整えて布を戻す。いつの間にか親子喧嘩が終わっている。私は玄関へ行き、靴箱を整理し直している彼女の横を、礼を言いながら通り過ぎて外へ出た。「あの!お名前は?」という声に聞こえないふりをして、私は足早に街の方へと歩いていった。遺影に叩きつけた香典で、私の素姓は後に分かることだ。
骨壺から骨を盗んだ。どこの部位かは分からない。乳白色のような色だけれど、少し薄い黄ばみもある。黒いスーツに白い粉でも付いてしまわないか心配だったが、ザラリとした手触りのわりには崩れることなくポケットに収まっていた。骨を盗んだ場合、何かの罪になるのだろうか?もしかしたら窃盗とか、遺体遺棄(今回は骨だが)とか。歩きながら骨壺についてネットで調べると、骨の所有者は「埋葬許可証」を持っていなければならないとのこと。それがないと納骨堂やお墓に埋葬できない云々、そこまで調べてめんどうになりスマホを閉じる。タクシーを呼ばずに私は家までの道をその小枝のような骨とともに歩くことにした。二時間ほどかかるから、ちょうどいい。
父のこの遺骨を、どこに棄てようか。
少し前に観た映画で、亡くした夫の骨に齧り付く女のシーンがあった。本当に愛した人を亡くすと、自分の内へと取り込みたいと思うものなのだろうか。私はそこまで愛しいと思った相手はいないから分からない。憎い人はいた。だからこそ、無力だった頃の幼い自分に何か救いになるような、気持ちが楽になるようなことがしたかった。けれど思いつかない。木の側に植えてしまうのは、ただの樹木葬だ。沿岸部に出て海に捨てようかとも思ったが、宮城の地でそれをやるのは冒涜すぎる。ハンマーで叩き潰す?いや、疲れることなんてしたくない。歩きづらくて、ガバガバだったパンプスを脱ぐ。靴擦れで踵から血が出ていた。靴を左手に持ち、右手で骨を眺めながら靴下のまま歩いた。
脇道を覗きながらそのうち思いつくと思ったのに、二時間はあっという間で、あと五分ほど歩けば家に着いてしまう。このまま家に持ち帰りたくはない。悶々と考えていたその時、向かい側から歩道に乗り上げて向かってくる自転車の集団がやってきた。集団といっても小学生高学年くらいの三人組。おしゃべりしながら私の横を通り過ぎる。元から道幅が狭いので、私は道を開けるために柵がある公園側へと避けた。そのとき、一人の腕が私の腕と軽くぶつかった。それはあっという間だった。持っていた小枝サイズの骨が、手から滑り落ちる。慌てて拾おうと腰を折り、一歩前へ足を踏み出した瞬間、靴下だったせいで滑り、つんのめるようにそれを蹴ってしまった。そして、眼の前で10センチほどの排水溝の口に吸い込まれていった。私の「あっ!」という声に、男の子が振り返って「すみません」と謝る。ぶつかったことへの謝罪だろうが、私は上の空の返事を返し、下を向いたまま暗い穴の隙間を覗いていた。排水溝の周りには苔がびっしり生えていて雑草や土が隣接するコンクリートの隙間をみっちり塞いでいる。ひと一人で簡単に持ち上げられる重さではない。いつの間にか少年たちはいなくなっていた。
予想もしていなかった顛末に、そして煮えきれなかった自分の意気地なさに、呆れるばかりで
「あははっ!」
声を出して笑ってしまった。手を叩き、目尻の涙を拭ってしゃがんでいた姿勢から立ち上がり歩き出す。
あの男の捨て場所として、ここ以上に最高の場所はない。西の山全体を覆うような黒い雨雲が近づいてくるのが見える。そのうち通り雨が降るだろう。側溝のゴミはあっという間に流される。
湿気と汗で濡れる首元を触り、小さな傷跡をたどる。泣き叫ぶ自分の声を聞いた。私が父に「愛しているから叱るのか」と問うた日じゃない、プリンアラモードを「いらない」と言った夜でもない、最後のクリスマスの朝でもない。私が幼稚園に通い始めた頃だ。あの日、どの子にもよくあるようなわがままを言った。幼稚園に行きたくない、寝ていたい、遊びたい、お家にいたい、すべてにおいて感情のままに幼い私はイヤイヤと駄々をこね泣き喚く。
「うるさい」
そう言って、父は私の首に両手を回して持ち上げた。私は驚きと恐怖で叫ぼうとしたが、それもできずに父の手を掴んで暴れる。苦しさの中、足がテーブルを蹴り、落ちたマグカップが派手に割れた。その音を聞いて、別の部屋にいた母が駆けつけた。その後どうなったのかは覚えていない。あのとき、幼いながらも精一杯もがいた指で自分自身につけてしまった引っ掻き傷が、今でも首に残っている。自分の泣き叫ぶ声が、街路樹で鳴く蝉の声と重なった。
遺された女と少年を思い出す。
茫然自失となったあの日の私は、もういない。
家へ帰ったらすぐにコンビニへ行ってプリンを買って来よう、二人分。プリンアラモードがあればなお良いが。そのあとに、弁護士に電話しても遅くはないだろう。
プリンの上にのった生クリーム、添えられたサクランボ、キュウイ、メロン、ミカン、イチゴ、そしてゆれる濃厚なプリン。今食べたら違う味がするのかもしれない。すっぱくて、甘ったるくて、キャラメルの苦味と、華やかな彩り。私の大嫌いだったデザート。
庭でフウセンカズラの手入れをしている母の後ろ姿が見えた。汗だくの私を見てなんて言うだろうか。きっと他愛のない、呆れた言葉。
パンプスをブラブラと片手に持ち、靴下をボロボロにして歩く私は、見えないうちから母に手を振った。
おわり
本文 9027文字
( 2024年7月12日投稿 )
読了ありがとうございました。
父親の死体を棄てにいく、というのからはちょっとふわっとしたニュアンスの棄てにいくでした。
いつもタイトルは一番最後に決めることが多いのですが、今回は何故かタイトルが一番最初に決まりました。甘ったるいデザートに反して物語はかなりビターなものになりました。主人公のような幼少期を過ごす子どもが少しでも減ってほしい、そういう思いで書きました。 また一つのきっかけとして、家父長制を考えるきっかけになれれば幸いです。
黒田八束様、素敵な企画をありがとうございました。参加できてよかったです。皆様の作品も楽しみにしております。
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