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闘うZ世代が社会を変える—学生ユニオニズムの可能性(山本健太朗)


パンデミックが終わり…(追記)

 この論考は、雑誌『POSSE』45号(特集「コロナ時代を生き抜く」)に掲載されたものです。論考を書いた2020年6月は、コロナ・パンデミックが始まり、まだ半年も過ぎておらず、その後の世界の先行きはまったく見えていない時期でした。
 当時、私自身の働いていたアルバイト先では、パンデミックの影響で休業したのにもかかわらず、アルバイトには休業補償が支払われませんでした。会社の対応を受けて、私は「生きていくためには闘わなくてはいけない」と強く感じました。そこで、私は労働組合に入って、アルバイト先にアルバイト全員への休業補償を要求しました。危機が加速するなか、10代・20代の同世代とともに、危機に対抗する新しい生き方を始めたいという一心で書きました。 ポスト・パンデミックの時代に移行したいま、もはや危機は過ぎ去ったのでしょうか? 
 そんなことはないでしょう。アルバイトといった低賃金で働く非正規労働者は、このかんの急速な物価高騰というさらなる危機に直面しています。次なる危機の時代で、この記事が、(限界への批判も含めて)新たな議論や闘争へと繋がることを願って公開します。
山本健太朗(NPO法人POSSE学生ボランティア)

追記:2024年4月15日

 ※本記事は、「抗う姿——脱商品化のための学生ユニオニズム(雑誌『POSSE』45号(特集「コロナ時代を生き抜く」)掲載)をもとに一部修正を加えたものです。

はじめに

 いま、世界各地の若者が集まる力を見せています。ミネアポリスからニューヨーク、シアトル、モントリオール、サンティアゴ、パリ、ロンドン、ケープタウン、ベイルート、香港―。街頭は若者たちが闘う最前線になっています。人種差別や気候危機、収奪、性暴力、貧困、独裁と、多様な群衆が闘っているものは異なっていても、共通するものがあります(注1)。危機に瀕した若者たちは自分たちが生きていく将来の社会を良くするために声を上げているということです。
 今回のコロナ危機で日本の若者の生活にも不確実性が覆いかぶさっています。アルバイト先ではもとから不安定で不利だった学生の立場が更に悪化しているのがわかります。休業補償が認められなかったり、シフトを減らされたり、給料を減らされたり、クビにされて退学を考えなくてはならないほど経済的に困窮する学生が出てきました。学生の学ぶ権利が脅かされています。
 私も休業補償が支払われていないアルバイトの一人です。2019年にアメリカの大学を卒業後、特に裕福な家庭の出身ではないので帰国し大学院進学のためにアルバイトをしてきました。そうしたなか、2020年4月にアルバイト先が休業したにもかかわらず、休業補償を支払わなかったのでブラックバイトユニオンに加入して組合活動をおこなっています。
 活動のなかでわかってきたことは、近年では学生や若者の多くが労働者として経済の大きな役割を担ってきたにもかかわらず声を上げない、上げられないという実情です。世界各地では多くの若者が積極的にさまざまな不正義に抗っている姿があるなか、日本の若者にそのような姿はみられないのはなぜでしょうか。市場に統治され育った彼ら彼女らの目には権利のために闘う姿が映っていないためではないでしょうか。また、表象のレベルだけでなく世界の若者は新自由主義によって失われた公共的なものを取り戻す実践を日々おこなっています。
 このような状況で労働組合が積極的に選択肢を示さなくてはいけません。学生が極度に労働者化し多くの企業が学生アルバイトに依存している日本では、特に労働組合が社会変革に大きく寄与できます。ここに学生が権利行使をおこなうための選択肢が労働組合である必要性があります。世界の集まる群衆の姿から日本の学生が失われた「共」的なもの―ネグリとハートの言葉でいうならば「コモン」―を取り戻すためのヒントを得ることができます(注2)。

闘う表象の必要性

 日本にはコロナ危機で困窮する学生の姿が至る所にあっても、闘う困窮学生の姿はあまり見えません。学生アルバイトの権利行使を促すには、まず「弱い当事者像」の再生産を止め、新しい「闘う学生」の姿を示さなくてはいけません。日本の学生の状況を相対化するために、闘う学生の表象にあふれている世界に目を向けてみましょう。たった一人でストックホルムの街で抗議を始めた当時16歳のグレタ・トゥーンベリさんは世界各地で立ち上がるたくさんの若い活動家の一人にすぎません(そのことを知っているであろうグレタさんは表象を独占するのではなく、第三世界や有色人種の活動家を紹介しています)。
 アメリカの場合はBlack Lives Matterや銃規制を訴える学生(声をあげた当時高校生だったエマ・ゴンサレスさんなど)、Sunrise Movement(環境運動団体、ナンシー・ペロシ議員の部屋で座り込みなどの直接行動をしたことで有名)、Democratic Socialists of America(アメリカ民主社会主義者、思想の面では多様な左派から構成される)、Justice Democrats(アレクサンドリア・オカシオ=コルテスなど、企業の利益ではなく労働者階級の利益を代表すると公言する議員を輩出)などでは、上の世代の活動家とともに10代〜20代が中心となって運動を進めているのが目立ちます。
 これらは多様な運動のごく一部でしかなく、若者によるたくさんの有名・無名な運動や名前のない自発的な活動があります。普段からキャンパスなどで若者が集まってドキュメンタリーの上映会をおこなったり、読書会を開くことによって、社会問題と社会正義について勉強し、考え、討論する機会が多くあります。請願書を提出したり、抗議の電話(phone zaps)をしたり、ポスターやビラをつくったり、街に出てデモをおこないます。それだけでなく、資金や物資を集めて食料や衣服、衛生用品などを配ったりもします。これに合わせてTwitterやFacebook、Instagram、Youtubeなどで情報を拡散することによって活動の威力を上げています(あくまで古典的な活動がしっかりあってこのようなテクノロジーを活用できます)。これらの全てを若者だけでおこなうことができますが、上の世代と協力することも多くあります。知識や技術などの地道な活動の成果が世代間で継承されています。
 私も不当に国外退去を命じられた同じ大学の学生(難民として幼い頃からアメリカに暮らしていた)がいることを周知する活動をおこなっている有志の学生たちに加わり、ポスターをつくり、請願書のサインを募りました。それに合わせてアメリカが世界で関わっている戦争や紛争についての勉強会もおこなわれました。同時に別の学生団体や上の世代の団体もこぞって同じ問題にそれぞれのアプローチで取り組みました。それぞれの若者が、それぞれの得意な領域で活動しているということです。その結果、地元紙が問題を報道するに至りました。闘う学生の表象はこのような地道な実践から生まれていることがわかります。世界では一人一人の若者が日常にあふれる表象に触発されて社会運動の主体になっています。
 さらに、世界の学生や若者が運動に積極的なのは歴史的に運動が日常にあるだけでなく、自分たちの未来を自分たちで決めたいという意志があるからです。親の世代と比べても明らかに経済状況が悪化し、大学を卒業した後に仕事はあるのにもかかわらず、人種差別は激化し、女性はいまだに抑圧されていて、地球に住み続けられるかすら疑わしい、という状況を消極的に受け入れることはできません。
 日本の学生も同じような問題に直面しているはずですが、未来について考えることはあっても、これが行動には結びついていません。闘う若い表象が欠けているからです。主体性を失った学生像がメディアなどで再生産されることによって、学生や若者アルバイトの権利行使をさらに難しくしているとも言えます。学生を救うべき存在としてしか見ていないときに、支援団体や労働組合は表象の再生産に加担してしまいます。
 この「弱い当事者像」の再生産を止める実践が労働組合には必要です。世界の実践からわかるように、単純に小手先のイメージ戦略として闘う若者の表象を示すことはできないので、学生が主体となった運動を進めるためには強い組織に消極的に援助されたり、抑圧されるのではなく、学生や若者自身が積極的に互助し、企業に対峙していくことが伴わなければいけません。たとえば、個々の争議に学生がお互いに参加し、解決してはじめて連帯を現実のものにすることができます。学生自身がどのように労働環境や労働条件を改善したいのか、そして社会をどのように変革したいのかを考えるのも重要です。知恵を出し合い議論を深めれば横のつながりが取り戻されます。ここに新自由主義で失われた公共性が再び生まれます。

新自由主義と困窮学生

 学生や若者のアルバイトが不安定で不利な立場におかれていても声を上げられないのは、彼らが単純に非正規労働者であるからではなく、新自由主義の市場による統治を受け入れているからです(注3)。現在大学生の1990年代後半〜2000年代前半生まれは新自由主義を誕生の時から受け入れて育っています。物の生産と消費が中心の経済の仕組みから、サービスを提供し消費する経済に移行し、現在の大学生は特に教育のような公共的なものが商品化されている時代を生きてきました。このため学生はサービスを消費する習慣を身につけています。小学校や中学校、高校での教育が満足いくものではなくなってしまい、学習塾に通うことが一般的になっています。実際には内容ではあまり違いのないさまざまな学習塾のブランドからより好ましいものを選択します。より良い成績をとり、よりランクの高い志望校に受かるためには、より多くの授業やより質の高い授業を購入します。
 このため大学の教育は出自にかかわらず誰でも普遍的に受けられるものではなく、教育という商品を購入することができる者のみがアクセスできるものになってしまっています。このことはコロナ禍で大学の授業がオンライン化したことによって商品の価値が下がった、という観点で学費の減免を求めている声が少なからずあることからもわかります。
 教育までもが商品になってしまうと、生活費(衣食住はすでに商品化されています)に加え、学費を稼がなくてはいけません。そして、労働力を販売する学生自身も商品となります。休業補償がなされなければ学生が労働者として自身を維持することができなくなります。これこそがコロナ危機であらわになった困窮学生の姿です。
 それだけでなく、すでにこのような市場の論理によって統治されている学生を労働者として規律する技術がアルバイト先にはあります(注4)。一見すると学生アルバイトにとっては重大すぎて不条理な職務を遂行させることによって、彼ら彼女らを従順にすることができます。
 コロナ禍では休業補償を支払わないだけでなく、シフトを減らしたり、不必要に出勤させたりする企業が現れました。それだけでなく、給料を減らしたり、アルバイト学生に別の地方に異動させたりするケースも出てきています。学生が個人でアルバイト先に休業補償を求めれば「アルバイトのくせに」と言われたり、無視されたりすることがあります。これがコロナ禍のブラックバイトの形態といえます。多くの学生が企業に休業補償を求めることができず、労働組合で闘うという選択肢に至らずに泣き寝入りをしてしまいます。

商品化に抗う原動力

 学生を統治する力があらゆるものを商品に変える市場の論理なら、労働組合は学生アルバイトの労働条件や労働環境の改善に限らず、教育や住居、食、ひいては、労働者である学生自身の脱商品化に繋げることに意味があります。学生が労働者になる仕組みを根本から覆さなくてはブラックバイトが別のかたちで生き残ることを許してしまいます。学費の減免や教育の無償化を求める社会運動には、学生を基幹的な労働者として利用する構造があるなか、学生アルバイトの労働運動が伴わなければいけません。いまや労働者となった学生はストライキという大きな武器を使えば―組織的に労働力の販売を停止すれば―企業と交渉できるだけでなく、学生を労働者として搾取する仕組みをあらわにし、その構造を揺さぶることができます。このような実践から生まれる抗う姿があってはじめて覆いかぶさる力の姿があらわになります。もちろんこれを可能にするには大規模な労働運動が必要です(注5)。
 それに伴って重要なのは、個々の争議の解決やストライキの発生件数だけでなく、争議を通じた若者自らの声による教育や生存などの権利主張です。もちろん小規模な争議の場合でもこのような問題提起は可能です。現状ではあまりにも声を上げる学生が少なすぎて、少しでも声を上げればメッセージは響くでしょう。具体的には給付型奨学金の拡充や学費無償化、「奨学金」の帳消しを求めることができます。この「奨学金」による借金を返すために大学を卒業した数十年後も労働者として働き続けます(そして、返し終わった頃には自分の子どもの学費が必要になります)。教育が商品としてではなく、公共的なサービスとして普遍的に提供されるようになると、現金への依存度が下がるので、学生が長時間働く必要性はなくなってくるでしょう。ここで注意しなくてはいけないのは、市場化された教育を公共のものにするというのは、単に国家による上からの管理を求めるという意味ではないことです。無償教育を求めるなかで、学生が自主的に教育の中身を構想し、決定し、運営していかなくてはいけません。キャンパスはアルバイトや就職活動によって従順な労働者を作る工場ではなく、公正な社会を維持するために学生が協働する場でなくてはいけません。また、キャンパスやその周りには学生の汚れを拭く清掃員や皿を洗い食事を作る食堂の労働者など―その多くが非正規雇用の女性や外国人―がいることを忘れずに交差的な闘争を進めていく必要があります(注6)。

さいごに

 世界のコロナ危機はこれまでの社会の不正義をより明確にしただけでなく、若者が将来を生きるために闘わなくてはいけない切迫感をうみました。同時に危機を乗り越えて自分たちの未来を良いものにしようという希望もあります。世界各地の若い群衆の姿は新自由主義で失われた公共性を取り戻す可能性を示しています。Black Lives Matterのデモには食料を配る人々や無償で救護にあたる人々、警察の暴力を監視する人々の姿があります。それぞれが、それぞれのできることをおこなうことによって、それぞれが、それぞれの必要を満たす社会の姿がすでに見えます。
 コロナ危機が日本の学生に教育と生存が普遍的に保障されているものではないという現実を突き付けるなか、労働組合が学生にとって将来を切り開く選択肢にならなくてはいけません。労働組合で学生たちがまずは労働者としての意識をもち、積極的に闘うことによって学生に覆いかぶさる力の姿をあらわになります。そして、集まる学生たちは、教育を商品化し、自らをも労働力商品の姿へと変えた新自由主義の論理を超える力にならなくてはいけません。

1 アントニオ・ネグリとマイケル・ハートはマルチチュード(multitude)という言葉を使って労働者階級を人種やエスニシティ、ジェンダー、セクシュアリティに多元的な主体性をもった群衆として捉えています。詳しくは斎藤幸平『未来への大分岐』(集英社新書、2019年)の「第一部 マイケル・ハート」を参照してください。さらに詳しい議論はHardt, Michael & Antonio Negri(2017)Assembly。
2 「コモン」は単純に民営のものに対する反意語の公営(国営)ではなく、群衆が主体的に生み出し、共有し、管理するものを示しています(Ibid. 2017; Ibid. 2019)。
3 市場による統治の詳しいメカニズムについては佐々木隆治「新自由主義をいかに批判すべきか― フーコーの統治性論をめぐって」平子友長 編『危機に対峙する思考』(梓出版社、2016年)を参照してください。
4 これについては今野晴貴『ブラックバイト―学生が危ない』(岩波新書、2016年)を参照してください。
5 ストライキがもつ可能性については今野晴貴『ストライキ2.0——ブラック企業と闘う武器』(集英社新書、2020年)を参照してください。賃上げに限らず、広範囲な社会の問題(気候変動やAI化など)に取り組む近年の社会的なユニオニズムが紹介されています。
6 シルビア・フェデリーチの論文“The University: A Knowledge Common?”では、大学やそこで生産される知識をコモンに変えるためには、大学内で再生産労働に従事する移民や亡命者が置かれている条件を変えなくてはいけないことを指摘しています。日本の大学の文脈では女性労働者や外国人労働者が再生産労働に従事していることがわかります。

参考文献

今野晴貴(2020)『ストライキ2.0——ブラック企業と闘う武器』集英社新書
今野晴貴(2016)『ブラックバイト——学生が危ない』岩波新書
斎藤幸平(2019)「第一部 マイケル・ハート」斎藤幸平編『未来への大分岐』集英社新書
佐々木隆治(2016)「新自由主義をいかに批判すべきか フーコーの統治性論をめぐって」平子友⻑ほか編『危機に対峙する思考』梓出版社
Federici, Silvia (2018) “The University: A Knowledge Common?.” Re-enchanting the World: Feminism and the Politics of the Commons, PM Press
Hardt, Michael & Antonio Negri(2017)Assembly, Oxford University Press



執筆者紹介

山本健太朗(やまもと・けんたろう/ Kentaro Yamamoto)

1997年に青森県に生まれ、神奈川県で育つ。ニューヨーク州立大学オルバニー校卒、東京大学総合文化研究科修士課程在籍中。NPO法人POSSEボランティア。

 トランプ政権下のアメリカの大学で学ぶさなか、広がる同世代の社会運動にインパクトを受け、社会運動に関与するようになる。POSSEに参加し、労働・貧困問題を学び始めた2020年に、コロナ・パンデミックが始まり、深刻化する非正規労働者や移住労働者の労働問題に同世代のボランティアと取り組んできた。また、休業補償を支払わなかった自身のアルバイト先では、労働争議を起こし、休業補償を実現。
 このプラットフォームでは主に、深刻化する世界情勢と、ますますラディカル化する世界の若い世代の社会運動の動向について記事を執筆し、日本ではほぼ語られない、重要な論点を紹介していく。
 現在は、エコロジーと労働をテーマに大学院で研究をしながら、POSSEでの活動やプラットフォームでの執筆に参加している。



【問い合わせ先】generationleft.platform@gmail.com
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