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016_Håvard Wiik Trio『Postures』

それは、ある雨の日の夕刻、職場から帰宅途中、駅のベンチで次の普通電車を待ちながら、片手で文庫本を読んでいた時だ。もう一つの手は、コートのポケットの中でなぜか固く握りこぶしをつくっていた。

今日はもう家に帰るだけだ。特に、寄り道せずに帰ろう。そういえば、あれの新刊出たから、本屋に寄ってからにしようか。

その時、隣に座った中年の男が持っていたビールの銘柄をふと目に入った。沖縄のビール会社だったか。

そういえば、ビールは久しく飲んでない、な。

不意に、けたたましく僕の携帯が鳴る。なんだこの着信音?画面は「非通知設定」誰だろう、訝しがりもせず、何も考えずほぼ無意識に電話を取る。

「もしもし、もし、」瞬間、後ろからいきなり針を刺されたように、ツーンと頭の先っちょが痛くなった。深夜にテレビの試験電波発射中に出る通信音のごとく、僕の脳天を機械音が突き刺した。

「ツーーーー。ツーーー。」

ツーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。

次に気付いた瞬間には、ベンチで隣にいた男が何か僕に喋っている。意識はまだ混濁している。ただ男が喋ると、かすかにビールの匂いがした。口を開く度に、どうにも僕の鼻につく。そうだ、僕はビールは苦手だ。

その匂いが、彼の吐き出す言葉の固まりの濃淡を薄めていくように感じる。彼の言葉は、空中をクロールしてあさっての方向へ泳ぎ出していくように、僕の耳には決して届いては来ないのだ。

知らぬ間に、僕は目を閉じていた。いや正確には目は開いていたが、瞳が開いて網膜が認知する映像を、脳が受信できていなかった。エラー表示。決して届かない。だめだ、脳が拒否しているんだろう。この男の話を聞いていけない。残念だが、これは強制シャットダウンに近いような反応だ。

「おい、でさ、聞いてるのか?」男は小突くように、まるっきり横柄な態度で、僕に話しかける。

「え、ええ。」
「で、俺の話はわかったのか?って聞いたんだ」
「うーん、ちょっと、まあ。正直、何言っているかわからないです。」
「聞いていなかったんだろ、全然。そうだ、目が空ろだもんな、もう俺の顔も見えちゃいないみたいって感じだ。」男の声色には、軽い怒気が混じっている。ビールで酔っ払っているのだろう。酔っ払った男は嫌いだ。
「いや、聞いてなかったわけじゃないんですけどね。だから、なにを言っているのかよくわからないんですよ。あなたの話が」いい加減にして欲しい。なんで、こんな場所で酔っ払いに絡まれなければならないんだ。こっちはこれからあのホテルに行かなきゃ、いけない、んだ。こんな酔っ払いにかまっている暇はない。忙しいんだ。早く行かなきゃ。

彼が言うように、ほとんど彼の話を聞いていなかったのが正解であるが、とりあえずそう答えておいた。ついでに、彼の顔も見ていなかったことも当たっていた。現に今、思い出してみても、話しかけられていたその時の彼の顔というものがあまり思い出せない。

「ふうん、まあいいよ。信じないならさ。俺はアンタに親切で教えてやっただけなんだからさ。でも俺の言ったことは」
彼の「ふうん」の響きが、若干鼻についた。いや若干ではなく、かなり。

くしゃっと頭の裏側で音が鳴った。紙くずを握りつぶすような。そうだ、自分の目の前の光景がすべて紙くずだったらいいのに。そうだ、握りつぶしてやりたい、目の前のこの男も。アイツも。憎い、憎い、私を騙したあの男。

男?誰だ?目の前の男のことじゃない。ていうか、今、一瞬、自分のことを「」って言わなかったか?

「ああ、もういいです。はい、僕これから、やることあるんで」
「やることなんてないんだろ」
彼は遮るように言った。遮るというか、僕が言おうとした言葉を横から手を出してもぎ取ったかのようだ。首根っこを掴まれたような鳩のように、僕の目は見開いた。なんなんだ、こいつは。

「やることも、これからどこかに出かけようなんて、お前にはあてもないよな。そいつに連れて行かされるだけだ。そこは、お前の行くところじゃない」

行くところはある。ホテルだ、あのホテル。さ、さっき電話した、あのホテルに僕は行かなきゃいけないんだ。ホテル?なんで、誰が、僕にそこに行けと言ったんだっけ?おかしい、思い出せない。でも行かなきゃ、あの山の向こう、電車を降りて乗り継いで行けば、辿り着くはず。でも、でもなんのために?でも、で、電話で、たしかに電話で、でんわで。

「だから、なんなんです?アンタ、な、なにが言いたいんですか」自分の声が妙にうわずり、震えているのがわかる。周囲の電車の待ち客も僕を見ている。やめてくれ、恥ずかしい。この男はダメだ。この男の話を聞いちゃいけない、早くホテルに行かなきゃ。

「俺の話を聞いてなかったのか?」え?

「だから、さっきから言ったろ、あんたには後ろにそいつがついてるって。うわ、マジキッショ。」男はさも汚いものを見るかのような目で、僕を見てくる。いや正確には僕の後ろにいると言っている、なにものか。

「全く、ソイツひっでえ、もう最悪の面構えだぜ。あんたをそこに、連れてこうとしてんだけどよ。あーもう、聞こえてねーかなー」

くそ、マジでふざけている。僕の後ろになんか、何もいやしないだろ。何を言っているんだ。いや、待てよ、僕はこの電車に乗って、これから、どこに向かおうとしているんだ。

だから、あのホテルよ、あのホテルにあるの、私とアイツの体…。いや、なんだ、なんだよ、何があるんだ。思考がまとまらない。ホテル、私、体、アイツ。変なワードが頭の火花のようにバチバチとちらついて消える。目の奥が焼けるように熱い。誰かが僕の脳内に入り込んでいる気がするんだ。さっきの電話の時に急に刺されたように痛くなった後頭部から声がする。

段々と目の前の男の姿をきちんと視認できるようになってきた。彼はモシャモシャのチリ毛にメガネ、紺地のアロハシャツ。そして、彼の着ているTシャツには「Angel」と書いてあった。何がAngelだ。ふざけているのか。やっとそれだけが頭の中に入ってきたんだ。目を凝らす必要の無いくらい、今までワイパーの動かないフロントガラスだった僕の目に、それだけがくっきり浮かびあがってきたのだ。

そして、さらにご丁寧に彼は自分のことを「Angel」だと、名乗った。

「ちっ、もうラチあかねえな、しょうがねえ。さてと、ちと、手荒にいくぜ」

「な、何すんだ、よ」

言ったか言わずか、男は僕の腕をものすごい勢いで引っ張り、乗ろうとしていた電車から引きずり降ろした。僕は思わず地面に尻餅をつく。僕と男は誰もいなくなった電車のホームで、向かい合った。男は僕にひざまづいて、静かに僕の胸に手を当てる。ざわざわ、自分の全身の毛が逆立つ。「やめろ、やめて」だめだ、自分の声が、声にならない。

男はゆっくり目を閉じて、ゴニョゴニョゴニョと、何かよくわからない言葉を口ずさんだかと思ったら、一瞬、憤怒の阿修羅象のような顔をした。メガネ越しにでもわかる、獲物を捉えた獅子のような面構え。

行け!

ものすごい怒気を含んだ声を、僕に浴びせた。彼から波動のように放たれた声が、自分を突き抜けて、後ろのホームの柱を越えて駅の外まで達したんじゃないかと思えるほどだ。瞬間、僕の後ろから、ヒルのような軟体動物が張り付いているような、ひどく心地の悪くて冷たい、ウニョーとした感覚が自分の背中をつたっていくのを感じる。そして背中をつたい、首そして頭から上にあがっていく。

「あ、、あ」僕は思わず情けない声を出した。頭が脳が、イカれそうだ。「嫌、やめ、やめてくれー!うわあ、あ、あ、あれ?」

僕は冷や汗をびっしりかいていた。自然と目が開く。男は僕の目の前で、むさ苦しそうな表情を浮かべる。恐怖で息を止めていたが、今なら大丈夫だ、呼吸ができるようになった。さっきと体の感覚がだいぶと違う。

おかしい、さっきまでは自分の体じゃなかったような気がしていたのに。思わず顔を触り、手の感覚も確かめられる。なんだ、何が起こったんだ。全くもって、状況が理解できない。そうだ、あの電話に出て、そしてそのあとこの男にホームで何かを言われたあの時から、記憶がスッポリ抜け落ちていた。

「もういいぜ。あー全く、また金にならねーことやっちまった。めんどくせー。オメーがそういう、しんきくせーツラしているから、こういうことになるんだぜ」

「え、え、ちょっと、アナタ僕に何したんですか」

「ほらよ」

男は名刺をピラっと僕に投げつけた。「有限会社 Angel」とシンプルにそれだけ書いてあった。裏面には、住所と電話番号の記載。

「また、なんかあったら、ここに来い。次から、金取るからな。わかったか」




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