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109_騒音のない世界「2018」

「あのー、すいません、今って、お時間よろしいですか?」
「あん?何、俺のこと?」
握っていたスマホから顔をあげて、俺は思わず、溢れる不機嫌が声に出る。渋谷のハチ公前で、地味なワンピースにカーディガンのシンプルな格好をした女性が、紙をはさんだ板を携えて、目に前に立っている。
紙には「What's your privilege ?あなたの特権はなんですか?」とだけ書いてあった。「特権」?何のことを言っているんだ?

歳は20代後半ぐらいだろうか。化粧っ気がなくて、細めの目に少し不恰好な前髪、顔立ちからすれば地味な印象で、お世辞にも可愛いとは言えない。あんまりこれまで接したことのないような女だな。もちろん、自分がそそられるようなタイプだとはとても言えない。女性を見るときの癖で、上から下まで全身舐めるようにして、彼女のか細い肢体をスキャンするかのように眺めた。控え目で平坦な胸も含めて。俺は彼女の全身に体つきに、なんとなく少しばかりの違和感を覚えた。

「ええ。あの、全然、お時間など取らせませんので、アンケートにお答えいただけないでしょうか」
「ふああ、アンケートねえ」
「ええ、あのー、今、お忙しいのでなければいいですんで。10分程度終わりますから」

俺は思わず退屈そうにあくびしながら、答えてしまう。これまで生きてきた中で、女の方から声をかけられた経験など俺はない。あったとしても、結局はこんなつまらないアンケートとかそのような類のものだ。一般的な女性が、俺みたいな男に興味があって声をかけるなんてことは、そもそもあり得ない。

めんどうな気持ちにかられたが、なにぶん俺には時間は腐るほどある。何しろ、マッチングアプリで会う約束をしていた女に直前ですっぽかされたのだ。アホらしくて家に帰る気にもならないが、これから特に何もやることなぞない。

「いや、別にいいけどさ、アンケートってさ、それのこと言ってんの?その紙。あなたの特権はなんですか?って、それどういうの?」
「はい、その通りです。あなたの特権を教えてほしいんです」
「あのさ、おたく、何言ってんの?俺のどこを見て、特権階級の男だなんて見えるわけ?」
「なんでもいいんです。あなたが自分で特権だと思っていることを教えていただければ」

何を言っているんだ、この女は。俺のどこを見て、特権があるだなんて思ってんだ。茨城の北の方のど田舎の頭のわりい底辺の高校を出て、平日はクソみてえな現場作業員やって、貴重な休日にマッチングアプリでヤレる女を捕まえようと息巻いてこうやって渋谷まで出てきて、すっぽかされるような男だぞ、俺は。一体どこに目つけてんだ。

「あのさ、おたく、言ってる意味が全然わかんねえんだけどさ。そもそも、特権てさ、金持ってて、大学とか出てて、綺麗な女がいてとかでしょ。俺、全然そんなもの、これっぽっちもないんだけど。たぶん聞く人、間違ってない?」
「いえ、何かしら、あると思いますよ、特権。もちろんあなたにも」

ああ、こいつ、たぶん話が通じねえタイプの女だわ、絶対。話半分で適当に答えておいた方がいいな。全く、女に話しかけられてもこんな珍獣みたいな女しか俺の方には寄ってこねえんだな、結局。隣で待ち合わせをしていたイケメンで金持ってそうな男の横に、派手目で露出度の高い格好をした女が甲高い声を出して駆け寄る。俺はなんとも言えない気持ちに襲われた。

「私、社会人大学院で社会学を専攻してまして、それの研究レポートにこのアンケートが必要なんです」
「はあ。それがさ、俺の特権とやらと、どう関係があんの」
「本人が決して自覚できていない特権があるのだと思って、それを調べようと思ってるんです」
「いや、だからさ、特権なんてねっーって。おたく、俺のどこにその特権とやらがあると思ってんの?」

「では、私が考えるあなたの特権について、とりあえず私が仰っても大丈夫でしょうか」
どうにも違和感のある変な敬語を使う。この女、絶対コミュ障だな、たぶん男とも付き合ったことのない処女だな。間違いない。
「はいはい、じゃあ、どうぞ。教えてくれ」
「まず、男性であることです」
「はあ??」
「男性であることは、まずこの日本で暮らすことにおいては、大きな特権です」
俺は大きくため息をついた。やっぱりこの女、話が通じねえわ。暇つぶしにでもと考えていた俺も、相手するのがだんだん苦痛になってきた。変なのにまとわりつかれたわ。

「あのさ、男なんて、みんなそうじゃん。日本人の半分、男でしょ?それでみんな特権持ちっていうこと?特権の基準低っ」
「そうです、それでも十分な特権です」
「それって、たぶん、女性は男性に比べて差別されてるからーとか云々の話でしょ。もう、そういう系ね、はいはい」
「最後まで聞いてください。家父長制の根強い日本においては未だに女性の社会進出が遅れています。OECDのこのデータにもあるように…」
「ああ、はいはい、わかりました。あのね、君、男はいいよね、っていうかも知れないけどね。色々これでも大変なのよ」
「はあ」
「男って、男同士でさ、色々と競ってんのよ。スポーツとか収入とか学歴とかでさ、結果出さなきゃ見向きもされねえんだよ、そうしねえと女にもモテねえしね。男はつらいよ、ってわけ」

騒音のない世界「それゆけワンダーらんど」

「あのー。あなたのお話はわかりましたので、次よろしいですか」
彼女は実験動物でも見るような目つきで俺が喋るのを見ている。この女、俺からアンケート取るとか言って、俺の話などは聞くつもりはないらしい。
「あー、はいはい、どうぞ」
「あなたは特に障害もなく五体満足のようですので、それも一つの特権であると言えます」
「あー。それはね、特権って言われちゃうとね。俺はこれが普通だとは思ってるんだけど…」
言いかけて、俺は少し言葉を言い淀む。急に頭の中が、小学校時代に引き戻される。そうか、俺は普通か。じゃあ、かっちゃんのことは普通じゃないってことなのかな。

記憶が舞い戻る。俺は小学校で一緒だった、かっちゃんのことを思い出す。かっちゃんは同じ団地で足に障害があっていつも特異な歩き方をしており、軽度な知的障害もあった。(すごくちっちゃい体で生まれたからだと親が言っていた。)小学校の低学年までは、俺もかっちゃんと仲良くて他の子達と同じように外を駆け回って遊んだ。

かっちゃんは言葉を覚えるのは遅いし、いきなり脈絡のないことを言い出して話が通じないけど、団地に駐車しているみんなの車のナンバーを全部記憶していたり、それはそれで面白い不思議なヤツだった。かっちゃんはかっちゃんだと思っていた、少なくとも何にも知らない小さい子供の頃は。

だけど、高学年になるとかっちゃんはどうにも周りについていけず、皆と距離ができてしまった。小学校高学年ともなると、親とか周囲から聞かされるのか、障害者っていうものが社会の中でどう扱われているのか、段々と皆わかってきていた。明らかにかっちゃんに対する皆のそういう「目」ができていた。

クラスであからさまにかっちゃんをいじめる奴がいて、俺はそのクソみてえなヤツと、それをやめさせようとしてケンカになったりしたが、かっちゃんはその様子をぼけっとした面で眺めているだけだった。たぶん目の前の状況を理解していないんだろう。俺はなんとなくむなしくなって、だんだんといじめも見て見ぬふりをするようになっていった。やがて、かっちゃんは皆とは違う別のクラスに移っていった。

そこから、かっちゃんのことはどうなったか知れない。今でも、あの汚い集合団地で気の優しいご両親とずっと暮らしているのだろうか。そうか、かっちゃんに比べれば、俺には特権があるって言えるのかな。なんとなく、俺はぬぼーっとした曖昧な雲のような考えに心がとらわれていくように感じた。

「あの、あと、もう一つよろしいですか」
「あん、何、まだあんの?」
俺はかっちゃんのことを思い出すのに、少なからず心の大半のメモリを奪われていて、ほとんど心ここに在らずだった。
「先ほど、あなたは女にモテないから男は大変だと仰られていたので、おそらくですが、あなたのことを異性愛者であるとお見受けします。違っていたら、申し訳ありませんが」
「はあ、異性愛者?何それ」
「はい、いわゆるヘテロセクシャルと呼ばれ、自分とは異なる性別の人間を恋愛対象とされる方を指します」
「つまり、ホモじゃねーってことね。それも特権なの?」
「そうです、現代社会において、多様性の重要さが叫ばれておりますが、未だ同性愛者は周囲から厳しい差別の目を向けられており、社会的にも受け入れられているとは言い難いです」
「ホモじゃない、ってことが特権だなんて考えたこともねえわ。だって、男が好きだからやってんでしょ、そんなの本人の好みの問題じゃん。それがそんな、大変なわけ?」
「失礼ですが、あなたが今、おっしゃったようなことを同性愛者本人は、周囲から常に言われて傷ついていることを知ってください」
「はあ」
「逆に考えましょう、あなたは男性で女性が好きだとして、周囲から男性は男性と付き合うことが社会的に正しいのだから無理矢理でも男性と付き合え、と言われたら、どう感じられますか?」
「それは…、まあ、確かに嫌だわね」
「でしょう?それと同じです。同性愛者のみならずセクシャルマイノリティと言われている方々は、異性愛者のあなたに比べて、この社会で生きていくことに、生きづらさを抱えているのです」

異性愛者は同性愛者に比べて特権を持っている。俺は確かにそんな風に考えたことはなかった。ただの気持ちわりー連中としか思っていなかった。そういえば、同級生でひとり女みてーにナヨナヨした奴がいて、オカマ野郎とか言ってクラスの奴からいじられていたのを思い出した。(学校なんて俺を含め、みな頭の悪い連中ばかりだった)そう言われると、そういった視点は全く自分に欠けていたことは認められなければいけない。

今まで俺は、頭も悪いし金も持ってないし、テレビに映るキラキラした連中とかが羨ましくて妬ましくて、どこまでも自分が負け組だと思っていた。クソみたいな自分の周りの世界を呪っていた。でも、男であり、五体満足であり、異性愛者であること自体が、すでに自分が持つ相当な特権なんであるとこの女は言う。なんとなくそれが俺は心の中に風穴を空けられたような気がした。

「お分かりになられたでしょうか?」
「ああ、なんとなく、おたくの言いたいことはわかったよ」
「すいません、それではお時間を取らせました」
「あのさ、おたく、なんでそんなこと調べてんの」
「それは、、、あの、そうですね…」
女は少し考えるそぶりをした。

「それは、今あなたに申し上げたあなたの持つ特権が、実はすべて私に当てはまらないからなのです」
「え、、つまり、それって…?」
「だから、私は究極的に皆さんが自分の持つ特権に気付いてほしいし、そう思って生きて欲しい。そうすれば特権の無い方に対する意識も変わっていくでしょう。私はいずれみんながそうなるのを願って、研究を続けているのです。それでは、また」

彼女はそよ風に乗るように、白紙のアンケート用紙を携えて俺の前を去っていった。ただ少し歩き方に違和感がある。6月の少し蒸し暑い夕方の渋谷のハチ公前には、スマホを握りしめた特権階級の俺一人だけが残っていた。


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